第一監
もしこの恋が自分のものになるとしたら、どんなに素晴らしいだろう。
眩しい朝日に瞼を開くとそこに少女はいない、静寂と闇が訪れて瞼を閉じる、それでも少女はここにいない。
寝ても覚めても、絶えず頭に浮かぶのは彼女のこと。
恋は綺麗めいて嘘めいたとりとめもない幻想だと、だれかがそう言っていた。
それなら僕はこのまま、ずっと幻想の中に生きていたい。
スケッチブックと画筆、そして彼女がいれば後は何もいらない、ただそれだけを望んでいるのに。
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プロに成りたてのしがない絵描き業、それが僕のしている仕事だ。
美大のときに知り合った画商、彼に僕の描いた絵を買ってもらい、その代金で毎日の生計を立てている。
専門としているのは水彩人物画、中でも大人びた幼女の絵画には、何故だかもっぱら高い値がつく。
それなりの評判がある幼女の絵は画商も気に入っているらしくて、彼女を描いて欲しいと、よく仕事をよこしてくれる。
お蔭で僕は好きなことをしながら、そこそこ程好い生活ができていた。
デスクの上にあった赤い表紙のスケッチブックを何気なく開く。
帳面をぺらぺら捲っていくと、始めから終わりまでびっしりと幼い少女の素描(デッサン)がえがかれていた。
これは僕が描いたものだ、あたかも日記をつけるように、一日一日違った表情の彼女を描き続けている。
僕は愛くるしい形を作った鉛筆の線を指でなぞりながら、遠い彼女の存在をせつなく想った。
「リナリー…」
唇が勝手に少女の名前を呟くと、僕の胸はいとおしさでいっぱいになった。
今、君は何をしている、幸せに暮らしているのだろうか。
愛と夢だった、欲望と希望だった、リナリー、君は僕の全てなんだ。
少女と過ごしたあの日々は今も僕の胸に、君と笑い合った時間、一晩中抱き締めたその体も、僕には忘れることができない―――
それは夏至に入る前の暖かな春、ちょうど八年前、僕が十六だった頃の…。
意識がゆっくり、ゆっくりと、長い年月を遡り返っていく、懐かしい記憶のなかに…。
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「よー、アレン、何ぼさっとしてるんさ?」
整然と並ぶ机、僕のまのあたりには大きな黒板が見える。
帰りのホームルームが終わり、賑わしく教室を出ていくクラスメートたち。
その場景を淡々と眺める僕に、鮮やかな赤毛の少年が明るい声をかけてくる。
ひときわ目を引くようなルックス、すらりと長い脚で軽快に近づいて来るラビ、彼とは高二のクラス替えから親しくなった。
「えっとさ、今日お前、これからどうすんの?」
ラビはきまりが悪そうに鼻頭を掻きながら、泳いだ目で僕を見る。
「僕は景色をスケッチしに行こうと思ってましたけど。」
その予定はなかったけれど、そわそわと落ち着かないラビの様子からして、これはきっと彼女(あれ)だろう、そう思った僕はとりあえずを言った。
「そっか、なら良かった、オレ、デートの約束が入っちゃってさ、悪りぃな。」
「まあ、気にしない気にしない。」
彼は面倒くさげな顔を作っていた、でもまんざらでもなさそうだ、ラビが彼女を大切にしているのは前から知っていたし、仲が好いのならそれ以上良いことはない。
「でもさ、お前ってほんと、変わってるよな。
結構モテるのに、女とか興味ないわけ?」
「…あはは。」
ずばり突っ込まれた質問を苦笑いでごまかす。
女子に興味がないと言えば嘘だ、だけどこの頃の僕は恋愛がどうこうとかそんなことよりも、だだっぴろく広がる景色を写生する方が、ずっとずっと魅力的に思えていた。
それから暫く経ったあと、教室を出た廊下でラビと別れて帰り道につく、さてどうしよう、家に帰ってもどうせ一人だ。
両親は僕の幼いとき離婚をした、父さんの過剰な暴力に堪えかねた母さんは僕を連れて家を出たのだという。
年々深い皺が刻まれていく母の顔、それはひと通りではない苦労をあらわしているのだろう。
痩せた母を見る度に、僕は悲しい気持ちになった。
お互い愛し合って結婚したはずなのに、しまいにはこんな結果を迎えるなんて。
それは僕と恋愛を遠ざけるひとつの要因でもあった。
何となくしけた気分になり、ふと来た道を振り返ると、いつもの見慣れた街並みが僕を見据えている。
その路地の脇に小さな森へと続いている小道を見つけた。
普段なら気にも留めないその小道に、僕は妙な興味を覚えた。
何かに惹きつけられるようにふらりと足を進める。
どうして小道が気になったのか、今思えば、あれは彼女が僕をあの廃屋に引き寄せたのかもしれない。
小さな森まで行きつくと先はすっかり草木に覆われていた、生い茂る枝葉を掻き分けて辿りついたのは荒れ果てた屋敷の廃墟だった。
朽ちてしまった洋館は森のなかにぽつんと佇んでいて、まだ昼のあいだだというのに、どことなく近寄りがたい感じがする。
一度は足を止めたのだけど、スケッチには絶好の機会だと思い、僕はその廃屋に近づいていった。
屋敷の周りは手入れをされていないのか、地面を這う雑草だらけでひどく足元が悪い。
建物の反対側に回ると、外の庭に通じている裏口のような鉄扉があった。
ここからなかに入れるかも。
僕は錆びたノブに手をかけて、蔦の絡みついた重たい扉をそおっと開けた。
「くすくす。」
扉の軋む音と同時に人の声がした、それはソプラノのきいた幼い子供の声。
だれかいるのか?
…!
明け放した扉の向こうを見て、僕は体を固めた。
視界に入ってきたのは長い黒髪の女性、白い肌が印象的で、とても美しかった。
一瞬でたのかと思った、もっともだ、こんなだれも使っていないような廃屋に人が住んでいるとはとうてい思えない。
瞬きひとつもせずに、僕は驚いた目で彼女を見た。
驚いた…?
いや違う、あれは彼女の美しさに心を惹かれていただけだろう。
次の瞬きの瞬間、僕の前に立っていた女性は、幼い女の子の姿に変わっている。
あれ…?
目を擦ってもう一度彼女を見たけれど、そこに立っているのは紛れもなく、華奢な体をした幼い少女だった。
僕があっけにとられていると、黒髪の少女は、きっときつい目つきをした。
「勝手に入ってきちゃだめじゃない、おにいちゃん、だれなの?」
「あ、や、僕は『アレン』っていうんだ。
ええと、君はここに住んでいる人なのかい?」
女の子は僕より背もだいぶ低くて、みてくれ小学生くらいの子供。
やけにしっかりした口調ときつい目つき、黒のワンピースを着ているせいか、少し大人っぽく見えた。
「ううん、ここわね、わたしの秘密基地なの。」
秘密基地ね、かわいいことを言う、やっぱりまだ子供なんだなぁ。
目を輝かせて答えてきた少女に僕は微笑んだ。
先客がいるならしかたがない、スケッチは諦めて他の場所を探そう。
「勝手に入ってきちゃってごめんね、おにいちゃんはもう帰るよ。」
そう言って女の子に背中を向けると、僕を引き止める小さな力が腕にかかるのを感じた。
「アレンおにいちゃん、優しそうだから、とくべつに入れてあげる。」
振り向けばそこに、あどけなく笑う少女の笑顔がある。
体にかすかな痺れのようなものが走った、僕はこのとき、幼い女の子に触れられてどきどきした。
だいいち女子にだって興味がない、そんな僕が?
…まずありえない。
それはきっと人付き合いの悪い癖だ、だから緊張した、そういうことにして胸の引っかかりを片づけた。
「君の名前は…何ていうの…?」
「わたし、わたしはね、『リナリー』っていうの。」
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そこで出会った女の子、リナリーに腕を引かれて僕は洋館に足を踏み入れた。
建物のなかは埃っぽかった、家具なんかも乱雑に散らかっているし、どこもかしこも苔が付着してきたなく汚れている、もう何年も使用されていないのだろう。
たくさんある部屋をリナリーが案内してくれる、まるで自分の家に来た客人をもてなしているようだ。
いつもこんなところで遊んでいるのだろうか、それもひとりで。
ひとつの部屋だけ蔦や苔がきれいに除かれていた、その部屋の前で少女がこちらを向いて、にっこり笑う。
「ここはわたしの部屋なの、だれにも内緒ね。」
リナリーはちょっとだけおすましをすると、僕を部屋のなかに招いてくれた。
テディベアのぬいぐるみ、鏡やくし、リボンの髪留め、なかは女の子の好きそうなおもちゃがずらりと並ばっている。
「ねえ、アレンおにいちゃん、なにして遊ぶ?」
僕の腕に掴まって上目遣いをする少女、これじゃあとてもスケッチなんてやらせてくれそうもない。
今日はいちにち子守りになるかな、僕はそんなことを考えながら、兄妹なんていない自分に妹ができたみたいで、ほんの少し嬉しくなった。
リナリーは色々なことを話してくれた、食べ物は何が好きだとか、どんな遊びをしているとか、どれもたわいない話。
もちろん僕の話だって聞いてくれた、風景を描くのが好きだと言ったら、スケッチブックの絵を見て、子供なりの感想をくれたりもした。
些細なときだった、けれど家族と過ごす時間の少ない僕からすれば、寂しさを紛らわすには十分すぎるくらい充実していた。
ほんと久しぶりに笑った、こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。
「リナリー、そろそろ帰らないと。」
窓から見える空を見上げながら僕は言った、辺りは日が暮れて真っ暗、話し込んでいたせいで全く気づかなかった。
「やだ、わたし帰りたくない。」
リナリーがぶうと唇を尖らせる。
「もう夜になっちゃったからね、パパとママが心配しちゃうよ?」
「やだやだ、アレンおにいちゃんと一緒にいる!」
なだめるつもりが逆効果になってしまった。
「それじゃあ、約束しよう。」
だだを捏ねる少女に、髪を撫でて、いいこいいこする。
「明日もここに来るから。」
「おにいちゃん、また遊んでくれるの?」
泣きそうな顔がぱっと明るくなる。
きっと両親たちはこの子の帰りが遅いのを心配している、僕にその気はなかったけど、聞かせるためにそう言った。
「うん、リナリーと遊んであげる。」
「本当?
…絶対だよ、わたし、アレンおにいちゃんのこと待ってるからね。」
僕の背中に抱きついたリナリ−が、安心したような笑顔を見せた。
無邪気に笑う少女の笑顔は、かわいらしくて天使みたいだった―――
†††
整然と並ぶ机、僕のまのあたりには大きな黒板が見える。
帰りのホームルームが終わり、賑わしく教室を出ていくクラスメートたち。
昨日とおんなじ場景、何も変わらない日常。
「アレン、オレたちも帰ろうぜ〜。」
ラビはだいたい、毎日おんなじタイミングで声をかけてくる、彼の上機嫌な様子からして、昨日のデートで良いことでもあったんだろう。
「これからゲーセンにでも寄ってく?」
そう聞かれたとき、少女との約束が頭を掠める、僕は暫く考えてから返事をした。
「ごめん、今日は用事があるんです。」
その気はなかったはずだ、それなのに僕はまた、彼女の待つ廃屋に行ってしまった。
あのとき思いもしなかったけれど、僕の心は君に捕らわれていたんだ、すでに手遅れだったんだと思う―――
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