第二監・二部



肌を掠める空気、風を切って走る爽快感が僕は好きだ。


「10秒25!」


ストップウォッチを握った体育の顧問が、高らかに声を上げる。


火曜日の第二時限目は体育、男女別習授業で男子は陸上競技百メートル、僕は今、学校のグラウンドにいた。


「お〜、なかなか良い記録じゃん。」


たった今、百メートルを走りきって息つく僕に、ラビが背中を突きながら言った。


「まだまだ、ですかね、もう少しタイムを縮めたかったんですけど…。」


「はいはい、良く言う良く言う、オレなんか『10秒62』だったんだぜ?


 つーかさ、持ち前の運動神経生かして、運動系の部活でもやったら?


 何とかの持ち腐れって、絶対お前みたいなヤツのことさ〜。」


「まあ、どっちみち、ラビには敵いませんよ。」


僕は自嘲気味に笑った、そこに嫌みはない、ただ単に、別の色んな面でラビに負けている、純粋にそう思っただけだった。


ラビに比べて、自分が劣っているからといって、癪だと思ったことは今までない。


思うままにゆったり生きている彼を僕は好いていたし、何より信じて頼れる、数少ない親友だからだ。


「…あ、あの。」


だれかが話しかけてくる、小さく消え入りそうな声だ。


後ろを向くとクラスの女子がいた、栗色の髪を二つに結った彼女は、僕らの顔を見るなり、ぱっと恥ずかしそうに俯いた。


僕は右を見やった、少し離れたネットのところで、彼女以外の女子がバレーの授業を受けている。


「あ…」
「…ウォーカーさん。」


僕が声をかけようとしたときに、彼女もちょうど唇を開いた。


「…気になっていたんですけど…靴紐が…ほどけてます。」


彼女はそれだけを言うと、また俯いてしまった。


「えっと…」


お礼を言おうとしたのだけど、肝心な名前が出てこない、そう、僕はクラスの女子の名前すら朧げで、ろくに覚えていなかった。


隣にいたラビが、声をひそめて僕に言う。


「(『蒼海カエデ』。)」


助け舟を出してくれたラビに僕はめくばせする、そしてもう一度、彼女に向かってお礼を言った。


「…蒼海さん、ありがとう。」


「…いえ…余計なことだったかもしれなけど…あの…私…これで戻ります…。」


顔を赤くした彼女は、さっと頭を下げてから、他の女子たちのところに戻っていく。


彼女が去った後、ラビはあの軽薄そうな笑顔になって、僕の肩を二三度小突く。


「あの子、お前に惚れてるな。」


「案外、ラビのファンだったりして。」


僕は冗談交じりにラビを躱した。


もし、彼女が僕を好きでいてくれても、僕は彼女のことを何とも思わないだろう。


それはいつかの日と似ている感情だった、まるで他人事のようだった。


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その日の授業が終わった後も、僕は一度、ラビと下校してから少女のところに行く。


聖女のイメージ、僕の描きたいものは、頭のなかで着実に固まりつつあった。


それまでの僕は、自分の納得できる絵が描けていなかったのかもしれない。


景色の趣きなどを写生していても、僕にはそこに、どこかわだかまりを感じていた。


僕の目に映っているのは生きた風景なのに、僕がそれを描くと色の褪めた風景になる、どんな発色のいい絵の具で塗り潰しても、それは単彩画(モノクロ)みたいだった。


だけど彼女は違う、彼女の絵は生き生きしている。


「ねえパパ、エミコ、動物園行きたい〜。」


歩道の向こうから手を繋いで歩いてくる親子の姿があった、父親の手を握る子供は、リナリーと同い年ぐらいの女の子だ。


「しょうがないな〜、それじゃあ、動物さんたちを見に行こうか、パパと一緒に。」


父親がそう言うと、女の子の頬が緩み、笑みが零れる。


そうだ、リナリーをどこかに連れてってあげよう。


いつもあんな薄暗い部屋で絵のモデルをしてくれてるのだから、それくらいのことはしてもいい、たまには遊びに連れてってあげたい。


幸い母から貰った小遣いが財布にあった、今日は無駄に使ったって構わない、どこにでも連れてってあげよう。


僕は少女に笑って欲しかった、少女の笑顔が見たかったんだと思う。


「わたしの行きたいとこ…?」


彼女に会った僕は、さっそく尋ねてみた。


「うん、今日はリナリーの好きなところに行こう。」


「ほんとに…?」


少女の顔がだんだん笑顔になる。


「わたしね、アレンおにいちゃんと行ってみたいところがあるのっ!」


顔じゅうを笑顔いっぱいにしたリナリーが僕に抱きついてきた。


そんな彼女のことを、僕はそっと抱き寄せる―――


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そうして僕は、腕を引くリナリーに導かれるようにして、廃屋近辺のある公園に辿りついた。


滑り台やブランコといった、ごく普通の遊戯具が置いてある、何の変哲もない公園だ。


小学生そこらの子が行きたがるのは、たいてい遊園地とかそういった、娯楽施設じゃないのか?


よりによって、どこにでもあるような公園なんて。


リナリーに視線をやると、彼女がじっと何かを見ていることに気づく。


彼女の目線を辿った先には、ここかしこ移動販売して回っている一台のケータリングカーがあった。


リナリーの目的(ねらい)は、アイスクリームカー(あれ)だな…?


僕の口元は緩く綻んだ。


「リナリー、あれ、食べたいの?」


「え、そ、そんなことないもん…。


 ずっと前、わたしここで、パパにアイスを買ってもらったことがあるから…。」


「ふむ、それで?」


「だから、わたし…。」


しおらしそうにしている姿が、またかわいらしい。


「いいよ、買ってあげる。」


僕はリナリーの手を取り、パステルピンク色のケータリングカーに近づいた。


「はい!いらっしゃい!」


恰幅のいい中年の店主が気持ちよく対応する、横でもじもじと遠慮しているリナリーに僕は聞いた。


「リナリー、何味にする?」


「いいの…?」


僕が頷くのをゆっくり確かめてから、リナリーは嬉しそうに笑った。


「わー…、やったーっ!」


壁面メニューには、ミルク、バニラ、チョコなどの定番メニューから、パンプキン、杏仁豆腐、アボカドといった一風変わったものまでが、小さな文字でずらりと品書きされていた。


「ん〜…どうしよう…ストロベリーもいいし…キャラメルも…あ…チョコミントがいいかなぁ…。」


リナリーがメニューと睨めっくらをしている、たかがアイスの味ぐらいで真剣に思い悩んでいる様子が、何とも愛らしかった。


「わたし、キャラメルにするっ!」


「すみません、それじゃあ、キャラメルとチョコミントを。」


僕はようやく決まったリナリーの『キャラメル』味と、僕の分の『チョコミント』味を店主に注文する。


「はい、お待ちどう、お嬢ちゃん、べっぴんさんだからサービスだよ。」


キャラメルアイスのたっぷり乗ったアイスコーンが、彼女の前に差し出される。


「べっ…ぴん…?」


「リナリーが、かわいいっていう意味。」


首をかしげるリナリーの耳元でそう教えてあげると、彼女はふっくらした丸い頬を、ぽっと桜色に染めた。


僕らのやり取りを見ていた店主が言う。


「いやいや〜、仲が良い兄妹だね、見ていて羨ましいくらいだよ。」


当然のことだ、僕とリナリーの関係を周りが見れば、まっさきに兄妹だと思うだろう、それ以外はない、それが世間の法則(ルール)というものだから。


道理上そうだと僕自身も思う、初めてリナリーに出会ったとき、僕は彼女に対して何も思わなかった、だれしも幼い異性に恋愛感情を抱いたりはしない。


彼女に視覚的な興味を持たなければ、絵の題材としてリナリーを見なければ、きっと僕も関心を持つことは…なかった…?


絵の題材…本当にそれだけなのか…?


「あはは…。」


店主の言うことに否定もせず、僕はただ、言葉を濁す。


「わたしたち、兄妹じゃないわ、恋人どうしなの、ねっ、アレンおにいちゃん。」


「リ、リナリー!」


そうだった、もうひとつのことをすっかり忘れていた、子供に嘘は通用しない。


にしても恋人同士だなんて…。


僕は横目で店主の顔を窺った。


…案の定、店主が僕に疑惑の目を投げかけている。


「僕たち兄妹なんです、リナリー、大人をからかっちゃだめだぞ〜。」


おちゃらけを言う自分が、ばからしい。


「‥‥‥‥‥。」


僕に冷たい視線が突き刺さった。


「あ…。」


リナリーは頼りなくうろたえる僕をじっとり見つめると、店主からアイスコーンを受け取って、すたすた歩いて行ってしまった。


「これ、頂いていきます。」


店主が僕を不審に思っていたようだけど、僕はチョコミントを受け取って、急いでリナリーを追いかけた。


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「あの、どうして怒ってるの?」


敷地内のベンチに座るリナリーの横に、僕も腰を下ろす。


「…アレンおにいちゃん、嘘ついたから。」


彼女はだいぶ怒っていた、僕と目も合わせようとしない。


リナリーの言うことは正論だ、彼女ぐらいの子供に僕らの常識なんて、まず分かるはずがない、どんな些細なことでも、確かに嘘はいけないと思う。


けれど幼い少女と高校生の僕が、兄妹でもないのに親しく遊んでいる、それを傍から見ればどうだろう?


…異様な光景でしかない。


どう説明したらいいか分からなくなった僕は、目の前で返事を待っている彼女を、黙って見つめることしかできなかった。


「…嘘はいけないんだよ?」


「ごめん。」


「…やだ…もう知らないもん。」


リナリーが首をぷいっと横に背ける。


「…ごめんね、どうしたら許してくれる?」


彼女に楽しんでもらうつもりでいたのに、逆に怒らせてしまった。


言い訳がつかない、そう思っていると、僕の方を向いたリナリーは、たちまちに笑顔を作ってみせた。


「…ほっぺにちゅう、してくれたら、とくべつに許してあげる。」


「…え?


 えーーっ!?」


僕は困惑した、何より、異性とまともに喋ったことすらない自分がそれをするなんて、…とても無理だ。


そのうえリナリーは僕より幼い、たとえ冗談でやったとしても、…しゃれにならない。


「それは…ちょっと…」


曖昧な返事をしたせいで、彼女はまたしても顔を背けてしまった。


「じゃあ、許してあげない。」


「ほら、もっと違うこととか…


 それなら、リナリーの好きなアイスをもうひとつ買うっていうのは、どうかな?」


「わたしはちゅうがいいの!」


彼女はがんとした態度を貫いている、こっちの話なんて、どうにも聞き入れてくれそうにない。


全く…キスの意味を分かってるのか…?


僕は溜息をついた、そして、半ば諦めたような口振りで言う。


「分かった、分かったよ。」


それを聞いたリナリーの顔が、ころりと変わる、彼女は悪戯な眼差しで僕を見た。


人を惑わす彼女の瞳に女性的な素質を見たような気がした、今からこれじゃ、将来(さき)が思いやられる。


「アレンおにいちゃん、はい、ちゅうして。」


そんな憂慮を知ってか知らずでか、リナリーは両目を閉じて、僕がそうするのを待っている。


努めて冷静でいようとした、だけれど、それは無理だった、リナリーは自分よりずっと年下なのに、彼女の手にかかったら、こうもやり込められてしまうなんて。


…えい、もう、どうにでもなれっ!


やけになった僕は辺りを見回す、ケータリングカーの店主が見ていないのを確認してから、彼女の頬に唇を押し当てる…。


…キス(それ)が終わると、少女は頬を赤くして僕に言った。


「わたしもしてあげる…。」


「!」


やがて少女の顔が近づいて、僕の頬に柔らかな唇がぴとっと当てられる…。


…僕は胸がどきどき高鳴るのを感じた、顔が熱く火照るのを感じた。


その感触はマシュマロみたいに柔らかくて…少女の唇からは…ほのかに甘い匂いがしていた…―――


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黄昏どきになった頃、僕らは途中の道まで一緒に帰って、それからそれぞれの家に帰宅した。


玄関を開けると部屋の中は真っ暗だった、どうやら、母はまだ仕事から帰って来ていないようだ。


だれもいないリビングを見渡して、部屋の静けさに、ふっと耳を澄ます。


遠くで高速ハイウェイを走る車の音が聴こえる。


ひとりでいるのは慣れている、なのに、今日はやけに寂しく感じる。


灯りをつけてテーブルを見ると、母が作り置きしてくれた炒飯がある。


僕は椅子に座って、料理に掛けられた透明のフィルムを剥がす、そして一日の出来事を思い出しながら、冷めたご飯を口に運んだ。


このところ寄り道しないで帰る僕を、ラビが相当怪しんでいたっけ、そう毎度、上手い言い訳が思いつくわけでもないし、リナリーのことを話しておくべきなのかな。


ラビはどんな顔をするだろうか…?


「‥‥‥‥‥。」


でも、あれには驚いた、まさかキス(それ)をされるなんて思ってもみなかった。


リナリーの唇、柔らかかったな…。


あの瞬間、世界が止まってしまったように、僕の時間は止まった、僕はリナリーにどきどきしていた。


…おかしいだろうって?


そうだ、どうかしてしまったんだと思う、リナリーが子供だという認識は、このとき僕の中で、とうに薄まってしまっていたからだ。


そして僕は、それすら気づかなかった。


色々あった一日だけど、リナリーの喜ぶ顔が見れて良かった、今度またどこかに連れてってあげよう。


頬にじんわり残る感触を感じながら、僕は明日会う少女のことを思って、小さな微笑みを浮かべた。