第二監・三部
長かった梅雨も明けて、いよいよ本格的な夏が到来した。
じりじりと照りつける暑い日差しのせいで、シャツの襟を緩めて扇いでも全然汗が引いていかない。
彼女と出会った日から、すでに二ヶ月経とうとしている。
焼けたアスファルトの道を歩きながら、僕は今日もあの廃屋に向かっていた。
最近、心のなかでひとつの変化が表れだした。
リナリーのことが頭から離れない。
それは学校にいるときも、家にいるときも、あるいは朝目覚めたときも、夜眠る時も、ずっと彼女が離れない。
彼女と会う度に、彼女をスケッチする度に、それは強くなる、どんどん強くなる。
この気持ちに気づいたときは、自分でもびっくりした、僕はたぶん、彼女のことが好きなんだと思う。
いつから惹かれ始めたのか、いつからそれに気づいたのか、僕自身の記憶は定かじゃない。
おそらく愛には色んな形があって、好きな対象(あいて)に対しての慈しみだったり、本能的な欲望による執着だったり、自分に自惚れるナルシシズムだったり、等しなみでないはずだ。
僕の想いがどんな言葉に当て嵌まるのか分からないけど、これまで外から傍観してきたそれを今、自分が心で感じ始めてる、それだけは、はっきり言い切れた。
自分より幼い彼女に抱く恋愛感情(それ)は、世間からすれば、非社会的で正常じゃなくて、とても理解しがたいものだろう。
それを感じている僕自身も、ひどく驚いて、混乱しているのだから。
だけど彼女に対する想いは偽りじゃない。
きれいな髪も、大きな瞳も、長い睫毛も、白い肌も、…そして眩しい笑顔も。
理屈なんてない、絵の題材としてじゃなく、僕はリナリーを、ひとりの女性として見ている。
どれもこれも好きで、好きでしょうがなくて、胸がぎゅっと締めつけられる。
君が隣で笑ってくれるのなら、僕を必要としてくれるのなら。
望みなんて特にはなかった、ただリナリーと一緒にいられれば、それで良かった。
道を行き交う人々、立ち並ぶ商店、雑踏する大通りを広く見ると、ある店が目に飛び込んできた。
クリーム色の外壁に派手やかな内装、店内に置かれている服や装飾品たちは、男が入るのを躊躇わせてしまうほど、女性特有の独特な雰囲気を作り上げている。
何の気なしに店の奥を見やると、赤と黒のチェック柄のリボンが、たまたま目に留まった。
あのリボン、リナリーに似合いそうだな…。
ブティックらしき小売店に入るのは気が引けた、だけど僕は、そのリボンをもっと近くで見てみたいと思った。
「いらっしゃいませ。」
照明の煌びやかな店内に入ると、青いアイシャドーをした香水のきつい女性が挨拶する。
ものすごく場違いな気がしたけど、店員の女性と目を合わせないようにして、僕は店内の奥に進む。
フランス製品と記されたプレート札の側にそのリボンがあった。
手に取って見てみると、リボンの裏には黒いゴムが付いていて、値札の端にチェックリボン付ヘアゴムと書かれている。
芯から赤いベース布地に黒い格子柄は、肌の白い少女にとっても似合いそうだった。
そうだ…。
僕は手にしたそれをそのまま、店員のいるレジの方へ持っていく。
店員の女性が、青い瞼をぱちぱちさせて、気兼ねがちに差し出したリボンと僕の顔を交互に見比べていた。
やがて女性は笑顔を作り、丁重な言葉で、品物の包装はどうするかと聞いてくる、言うまでもなくプレゼントだと思ったようだ。
「あ…、ええと、どんな感じのものでもいいです。」
「かしこまりました、ラッピングを致しますので、少々お待ち下さい。」
マ二キュアの施された指が慣れた手つきでリボンを包装している、少しのあいだの沈黙に僕は何となく気まずくなった。
店員の女性が気を使って話しかけてくる。
「こちらはフランス製の布地を使用しておりまして、大変持ちが良いものなんですよ、洗濯もできますし。」
「ああ、そうなんですか。」
「プレゼントされるお方は、彼女さんですか?」
店員の質問に、僕はぼっと顔を赤らめる。
リナリーのことをそう訊かれたら、以前の僕は、間違いなく『違う』と答えていた。
今は否定するどころか、そう思われることが嬉しいくらいだった。
僕たちが恋人になることは、実際ありえない。
この気持ちを、どんなに正当化したって、どんなに美化したって、僕らの年齢差が縮められるわけじゃない。
けど、『そうだ』と答えることだけなら許されるはずだ。
「…あ、はい、そうです。」
「でしたら彼女さん、きっと喜ばれると思いますよ。」
僕は包装の済んだプレゼントを受け取って、くすりと笑う店員の女性に、気恥ずかしくお辞儀をした。
リナリーにきちんと物を贈るのは、これが初めて。
二千円にも満たないちっぽけなプレゼントだけど、僕なりの気持ちを込めて贈りたい、彼女に喜んでもらいたい。
店を出た後も頬がまだ熱かった、僕のそんな顔はどこのだれが見ても分かるくらい、真っ赤に紅潮していたと思う。
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それから廃屋へ行った僕は、彼女に裏口で出迎えてもらうと、早速『僕らの部屋』に向かった。
ソファーに腰を下ろし、リナリーと隣り合って座る。
彼女が僕のちょっとした変化に気づくのは早かった、硝子玉のように澄んだ瞳が、まじまじとこっちを見ている。
「ん〜、アレンおにいちゃん、いつもと違う?」
「え、そ、そうかな?」
女の子に物を贈るだなんて、未だかつてしたことがない。
僕は少し緊張していた。
曇りがない彼女の瞳は、そんな僕の心を透かして見ているみたいだった。
どう渡したらいいかな。
よそよそしい笑顔を作ったらいかにも不自然だし、そっけない態度で渡すのも妙に気取っている感じがする。
笑顔になることを意識すると、逆にできなくなるものだ、さりげなくが一番だろう。
「やっぱり変よ?」
身を乗り出してきた彼女のノースリーブの肩に、細い絹のような黒髪がさらさら流れる。
「いやあのね、実は、リナリーに渡したい物があるんだけど…。」
僕はそう言ってスクールバックをあさり、アムールピンクの包装紙に包まれたプレゼントを彼女の前に差し出した。
「わたしにプレゼント…?」
躊躇いがちに受け取るリナリーに、僕は言った。
「きっとリナリーに似合うはずだよ、開けてみて。」
きれいにラッピングされた包装を、リナリーが期待に満ちた面持ちで、ゆっくりと解いていく。
「わぁ…これ…!」
小さな白い指が箱からリボンを持ち上げると、それを宙にかざして、彼女はとても嬉しそうに見つめた。
「アレンおにいちゃん、どう、似合う?」
あからさまに大喜びするリナリーが、赤いチェックのリボンを髪にくっつけて、おしゃまな顔をする。
赤と黒の格子柄リボンは、思った通り、肌の白い彼女によく似合う。
「ばっちり似合ってますよ、お嬢さん。」
頬を赤くした彼女が、また嬉しそうに笑う。
「おにいちゃん、ありがとう…。
そうだ、これをつけたわたしのこと、描いてほしいな…。」
「それなら今日は、はりきってリナリーを描かなくっちゃ。」
素直な微笑みを浮かべるリナリーに、自然と笑顔になる自分がいる。
僕がおのずと笑顔になる理由、それは彼女につられたからじゃなく嬉しいからだと思う、リナリーの笑顔をこの目で見ることができるから。
だだっぴろい景色しか映らなかった僕の世界は変わった、『君』という女の子が現われてからは、風景の趣きすら色褪せて見える。
君だけが持っている鮮やかな彩色が、僕の視界(ひとみ)にたくさんの色をくれる。
今から先のこと、僕らがどうなるかなんて、全くもって分からなかった。
だけど、これからも赤いスケッチブックに君をえがいていける、お互い笑顔でいられるのだと、僕は何の確信もなく信じた。
こうしてリナリーと向き合って、二人で笑い合いながら、ずっと一緒にいられると思っていた。
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「おにいちゃん、リボンありがとう、わたし、これ大切にするね…。」
裏口でリボンを握り締めた少女が、薄紅色に頬を染めて僕にそう言った。
「こんな物で良かったらいつでもプレゼントするよ、その代わり、リナリーをいっぱい描かせてもらうけどね。」
僕とリナリーは何度か見つめ合った後、くすくす笑った。
「アレンおにいちゃん、また明日ね。」
「うん、また明日。」
白い八重歯を見せて無邪気に笑う少女は、本当に小さな天使みたいだ。
その華奢な体を抱き締めたい―――
胸の奥で溢れ出そうになる衝動を、僕はぐっと堪えて呑み込む…。
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家に帰った僕は真っ暗な玄関を通り、自室の灯りをつける、ベッドに寝転がった僕が想うのは、やっぱり彼女のことだった。
リボンを握り締めていたリナリーの姿が思い浮かぶ。
まさかあんなに喜んでくれるなんて、あれだけ嬉しそうな顔をしてくれるのなら、僕としても贈り物をした甲斐がある。
僕は思い出したように、枕元のスクールバックから赤いスケッチブックを取り出す。
綴じ合わせられた分厚い紙を捲っていくと、赤黒格子のリボンを結った少女のページに辿りつく。
彼女を素描するには、もう少し繊細な筆触が必要、まだまだ僕は勉強不足だ。
絵のなかの『聖女』は清く美しくて、あどけない容姿とは対照的に、凛とした瞳をしていた。
僕は今、孤独を感じない。
周りのみんなと同じように、目で物を見て、耳で音を聞いて、色々なことを感じることができる。
嬉しいとき、怒っているとき、悲しいときや楽しいときの感情を、心のままに表現することができる。
それはリナリーの影響だ、彼女に出会えたからこそ、こんなに変われたんだと思う。
ただ、どうしても気懸かりに思うことがあった。
日ごとリナリーをスケッチしていて分かったことだ、彼女の体にあった褐色の斑紋、あれは内出血のような痕だった。
彼女のそれを見たのはあの日だけじゃない、この約二ヶ月間、リナリーはたまにそれを作ってくる。
どこかで転んだりすればそんな傷もできるだろう、小学生ぐらいの子が痣を作ったりするのは珍しくないことだ、これは無用な心配かもしれない。
思わしくない何かが頭の隅を掠めた。
僕はそれを直接されたことはない、けれどとても身近に感じること、厭わしいとさえ感じることだった。
†††
その明くる日、授業が終わってラビと帰宅した僕は、いつものように廃屋に向かった。
笑顔で出迎えてくれる少女の姿を想像しながら、いつものように裏口の鉄扉を開ける。
僕を待ち受けていた光景はいつもと違っていた、扉を開けた先に彼女の姿は見当たらなかった。
あれ…?
ほんの一瞬考えてしまったけど、こういうことかもしれない。
たまたま僕の方が早く着いてしまっただけ、そう思った僕は、二人の部屋で暫くリナリーを待つことにした。
彼女と会っているときに使うこの部屋は、僕ひとりでいると、やたら広く感じる。
ソファーに身をゆったり沈めて、苦々しい溜息をつく。
何をそわそわしてるんだ、これじゃあ、待ち合わせに遅刻した恋人を待つ彼氏みたいじゃないか…。
さしあたり、することもない、暇潰しできるものが見つからず何もしないでいるうちに、ときは一刻ごと流れていった。
ふと気づいた頃には日もだいぶ傾いていた、腕に嵌まった時計を見ると、ゆうに午後六時を回っている。
リナリーはどうしたのだろう、今日は都合がつけられなくて、ここに来れなくなったのだろうか、でも、それにしても…。
ひとつ予感めいたものがある、昨日感じた思わしくない何か、それと今の現状を、何故か切り離して考えることができなかった。
僕は鉄格子で囲われた窓の空を仰ぐ。
さっきまでの晴れ空は暗く翳り、遠くの空がごろごろと轟き鳴っている。
今夜は嵐になるかもしれない、そう思ったとたん急激な不安に駆られた。
いや違う、あれは紛れもなく何かを予測していたんだと思う。
そうだ、僕はリナリーのことを…―――
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