第三監・一部


例えて言えば、もし時が逆戻りしたとして…。


それでも僕は、君に触れないでいられただろうか?


目を伏せたくなる真実、それを突きつけられても、果たして冷静でいられただろうか?


触れないでいられるはずがない、冷静でいられるはずがない。


この過ちが二人を引き裂く原因になったのだと、判っている今でも、何度だって反復するはずだ。


僕はリナリーを抱いてしまう、きっと、あのときのように―――



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雨は一向に止む気配がない。


あれから僕は、暫くして雨が止むのを、廃屋の一室で待っていた。


一時的な急雨かもしれないと、ここで雨宿りをすることにしたものの、降りしきる雨は衰えるばかりか、いっそうの激しさを増し、とうとう暴風雷雨になってしまった。


僕はもう一度、窓の外を見る。


横殴りの雨のなか、ときおり空が明るく閃き、稲光りの後に低い地鳴りの音が轟めく。


こんなときリナリーがいたら、どうなっていたかと思う。


何せ彼女は雷が大の苦手、ごろごろと鳴るあの音だけでも、びっくりして泣き出すだろう。


電気の通っていないこの部屋は薄暗い、僕は、泣きそうな顔で自分にしがみついてくるリナリーの姿を想像した。


それはそれで、ちょっぴり嬉しいような気もする。


自分ながら、妙な想像をする僕に笑ってしまう。


すぐ何かにこじつけて、彼女のことを考えるのがおかしかった、そう、僕はことごとくリナリーのことしか見えていない。


かねて感じた、思わしくない不安は拭えた訳じゃない。


だからこそ正反対の、そんな、たわいないことを考えるようにしていた。


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「アレン…おにいちゃん…。」


ソプラノのきいた高い声、それを耳にしたとき、僕の体の動きは呼吸すら、その一瞬全て停まった。


どうしているはずのないリナリーの声が、そう思い、声のした方を振り向く。


そして僕は、目を疑うような光景をまのあたりにする。


「リナリー…どうしたんだ…それ…」


まっさきに驚いたのは、彼女が裸足だということ。


暴雨に打たれて来たのか、長い髪はびしょびしょで、着ている衣服までぐっしょり濡れている。


さらに僕を驚かせたのが、リナリーの手足の打ち傷だった。


ノースリーブのワンピースから覗く手と足には、青く変色した斑紋があちこち鏤められている。


見るのも痛々しいその痣は、まだ新しいものだ。


僕は真っ白になった頭の思考を、ゆっくり働かせて、心を落ち着かせる。


「何があったのか、聞かせてくれるね?」


僕があげたリボンをきつく握った少女は、目に溜まった涙をひと滴零すと、こっちを見て、静かに頷いた。


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ことの事情を聞いたとき、その酷らしさに僕は、話の途中で耳を塞ぎたくなった。


ひとつの予感めいたもの、僕の当て推量が的中してしまった。


手足にできた傷は、親による折檻の痕、リナリーは自分の母親から暴力を受けていたのだ。


驚くべきはその理由、母親の浅はかな考えには、落胆を通り越して絶望した。


彼女と母親に血の繋がりはない、リナリーは再婚した父親の連れ子で、彼女からすると継母(ままはは)ということになる。


つまりこういうことなのだろう。


『夫に愛されている娘が憎たらしい』


そんなものは…子供を虐げる親のエゴだ…。


海外出張している父親の目を盗んでは、さしてもない理由をつけて、彼女に暴力を。


れっきとした犯罪…そう…人として許されない行為…。


リボンを握り締めて泣きじゃくる彼女の体は、昨日よりもずっと細く、脆いように感じられた。


『しかたないの、大人は大人の都合があるんだから。』


僕はいつだかの、彼女の横顔を思い出した。


大人びて見えたリナリーの物憂い顔。


きっと無理をして、諦めてしまったんだ。


父に対して、あえて何も感じないようにしていた僕と同じように、リナリーも諦めてしまった。


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「リナリー、おいで…。」


傍らに駆け寄ってきたリナリーが、僕の胸に顔を埋める、彼女の肩は少し震えていた。


「我慢なんて、もう、やめにしよう?


 いっぱい泣くと良いよ、大丈夫、僕が付いてる。」


以前、ふと思ったことだ。


僕の方から家族の話を持ちかけたとき、リナリーは曖昧な表情を浮かべるばかりで、元気な彼女らしくなかった。


何か辛いものでも見ているような、凍りついた瞳。


そうだ…あれは母親に対する…怯えだったんだ…。


非情な仕打ちを受けてきた彼女は、僕よりも辛かったはず、僕には優しい母がいた。


けれど彼女には、彼女の信頼できる人間は、とても遠くにいて、彼女が虐げられていることすら知らない。


彼女は堪えがたい苦しみを抱えてきた、だれにも言えず、たったひとりで。


僕は目頭が熱くなった。


人と人との交わりのなかで、およそ僕が感じているこの感情は、ただの同情、もしくは、似たもの同士の傷の舐め合いなのかもしれない。


だけど、今まで堪えていたものを吐き出して、しきりに泣きじゃくるリナリーを前に、僕は何も感じずにはいられなかった。


君を抱き締めて、安心させてあげたい…


できることなら、暗闇を照らす光になってあげたい…


だれかの為に、何かをしてあげたいなんて、そう思うこともまた、初めてだ。


胸に埋もれてすすり泣く少女の肩を抱く。


僕は細い体をぐっと抱き締めた、彼女が安心できるように、その心が壊れてしまわないように―――