第三監・二部



耳を澄ませば、虫の鳴き声が聴こえてくる。


嵐の後の静寂、澄み渡る空気のなか、しんと静かな森に虫の音だけが鳴り響く。


腕時計は夜半二時過ぎを差していた。


そして隣には、僕の腕のなかには、穏やかな寝顔のリナリーが、すやすやと気息を立てて眠っている。


彼女の幸せそうな顔を見続けながら僕は考えてみる。


色々なことが、色々な思いが、過ぎっては消え、過ぎっては消えていく。


傷ましい事実を聞いてしまったときの動揺は、計り知れないものだった。


うすうす感づいてたとはいえ、あの痣を直視して、彼女の口からそれを聞かされてしまうと、とても冷静ではいられなかった。


それから僕らは一線を越えてしまった。


彼女を抱いてしまったことを後悔している?


それは絶対にない、罪悪感の欠片も感じない、という訳じゃないけれど、僕は嬉しかった。


リナリーの存在をしっかりと感じることができたし、僕自身の決意を強く心に決めようと思えたからだ。


僕が現状を変える、彼女を暗闇から光のなかへ連れ出してみせる。


それに男としての責任、僕なりのけじめを、きちんとつけたい。


まず手始めにできることは何だろう、その為には…


「…アレン…おにいちゃん。」


長い睫毛に縁取られた彼女の瞳が、ゆっくりと開かれる。


「お目覚めですか?お嬢さん。」


「あ…、わたし、眠っちゃって…?」


「随分気持ちよさそうだったね、よだれ垂らした寝顔、ばっちり眺めちゃった。」


「う、うそ?」


「それと、寝言も言ってたっけ?」


「わ、わたし、何て言ってた…?」


「…これ、言っても大丈夫?」


「え!?そんなおかしなこと言ってた…?」


「さぁ〜?どうでしょう?」


「アレンおにいちゃんっ!」


僕のことが大好きなんでしょう?


 さっきのリナリー、何回もそう言ってたもんね?」


「…や…やだ…恥ずかしいな…も〜…。」


「あ〜、顔、真っ赤っ赤〜。」


「…そ…そんなのとりけしなんだから…。」


「何で〜?僕は嬉しかったけどなぁ〜?」


「…やっぱ…とりけすのとりけし…。」


目が合うと彼女は、ぱっと恥ずかしそうに瞳を逸らす、僕はいつの間にか、その体を瞬間的に抱き締めていた。


少女の髪と体から、綿菓子のような甘い香りが漂ってくる。


「…リナリー、まだ痛む?」


「…ううん、もう平気。」


僕との行為のせいで、彼女は少し出血していた。


リナリーと深い関係になったのは後悔していない、だけど軽はずみな気持ちからそれをするのは、やはり人間としてどうだろう?


…僕がけじめをつけ終えるまで、彼女を抱くのは止めにしよう、そうだ、そうするべきだ。


腕のなかのリナリーをいっそう強く抱き締める、次に発した僕の声は、僅かばかり緊張を帯びていた。


「あのね、驚かないで聞いて欲しいんだけど…。」


「?」


「もちろん、この話をどうするかは、リナリー次第だよ…?」


自分の生き方をどのように決めるか、言うに及ばず、その決定権は彼女にある。


断られてしまったら…、という思いが、言葉尻を濁らせる。


「おにいちゃん、続き、早く早く〜。」


リナリーが心待ちにして僕を見る、ともかく伝えてみなくては何も始まらない。


それから僕は一句一句、言葉を重く、噛み締めながら少女に告げた。


「…僕の、花嫁になって欲しい。」


それは結婚という形を備えた二人の未来、僕からの誓い。


今すぐにとは言わない、彼女が婚姻できる歳まで、何年だって待つつもりだ。


「…アレン…おにい…ちゃん。」


目の縁に煌めく涙を溜めて、リナリーが答える。


「…わたし…おにいちゃんのお嫁さんになりたい…。」


僕の心は奮い立つようだった。


これ以上ないまでに膨れ上がった想いで、胸がいっぱいになる。


「…ありがとう…必ず幸せにする…。」


笑顔を綻ばせた少女の左薬指に、僕はそっと口づけて婚約(エンゲージ)を交わす。


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未来に思いを馳せてみると、幸せな家庭を築いている僕たちが浮かぶ。


高校を出たら就職活動をして、立派な大企業に入れたらある程度の貯蓄をして、精神的にも経済的にも一人前の男になったら君を妻に迎えて…。


子供は一人?いや二人?やっぱり男の子と女の子、両方とも欲しい。


そうすると、目指していた絵描きの仕事はできないだろうけど、たまには君を描かせて欲しい、そして僕たちの子供も、僕の大切な家族を赤いスケッチブックに…。


将来の二人について真剣に考える自分に、何だか僕はくすぐったい気持ちになった。


こんな僕を見たら、きっとラビはびっくりするかな?


…もしたら僕らしくないと、笑われるかもしれない。


恋愛馬鹿になったって、別にいい、これは心の底から感じている自分の正直な気持ちだ。


「…おにいちゃん…わたし…信じてるからね…?」


「…うん…約束する…。」


腕のなかにある柔らかな温もりを、僕はいとおしく慈しむ。


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青白い月に霞んでしまった未来は、そのとき、確かに届きそうだった。


少女の体温、少女の匂い、少女の感触を、すぐ傍に感じていた。


もしも僕が、目に見えないほどの亀裂、哀しい予兆を感じ取ることができていたら、今の未来を変えられたのだろうか。


あの夜の君、眩しすぎる笑顔は、僕の瞳に焼きついて離れない。