第四監・一部


彼女とひとつになれたことで、僕は好い気になっていた。


自分の力を過信していた、自信と自惚れの意味を履き違えていた。


彼女を暗闇から光のなかに…淡い夢にまどろんでいた…現実が見えてなかった…。


僕が現状を変える?


親の援助を受けていた高校生の僕に、そんな未熟な少年に、何を変えられるというのだろう?


少女と過ごした、いとしい日々が終わる、僕の全てもそこで終わる。


遠くの空へ消えてしまった小鳥は、もう僕の傍に帰ってこない。



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下校のチャイムが鳴る。


整然と並ぶ机、僕のまのあたりには大きな黒板が見える。


帰りのホームルームが終わり、賑わしく教室を出ていくクラスメートたち、いつもとおんなじタイミングで声をかけてくる彼。


「アレン、そろそろ帰ろうぜ〜。」


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混雑する人ごみのなか、大通りのスクランブル交差点で信号待ちをしているときにラビが訊いてきた。


「今日、進路指導の授業あったじゃんか、ほら、配られたプリントに希望進路を記入するやつ。」


「進路希望調査でしたっけ?」


「そうそう、あれさんざん悩んだんだけどさ、結局オレ、進学志望にしちゃった。


 このまま就職ってのも良いんだけど、ウチのパンダじじいが家業継げ継げ煩くって…。」


「ラビのとこは、家族代々の、有名な文学著述家系一家(ブックマン)ですもんね。」


「まあ、著述家目指すっても、そこそこの学歴が必要だしな〜。」


親が有名だと子供も苦労する、僕はラビの身の上を同情した。


けど、どうだろう?


世の中の情勢をあらゆる角度から見て、見聞や経験などをもとに著述する、そんな仕事は、洞察力が鋭い彼にぴったりの天職とも言える。


「ってかさ、アレンなんて書いた?」


「あ、僕は就職志望で…。」


「えっ!?マジ!?」


ラビは目を丸くして驚いている。


「オレてっきりアレンは美大志望かと思ってたさ…、画家になる夢、どうすんの?」


「趣味程度に絵が描ければ、それで良いかなって、今は思うんですよね。」


「その才能、埋もらせちゃう気か?


 何かもったいない話だよな〜。」


彼が驚くのも無理はない、かつての僕は、彼女に出会うまでの僕は、絵画以外のことに全く興味を示さない人間だった。


「まあ、それが先を真剣に考えた結果なら、オレは幾らでも応援する。


 …何て言うかさ、お前、変わったよ。」


「そうですか?」


「ああ、良い意味でってことだぜ?


 どっか感情を押さえつけてるとこあったからな、前のアレンはさ。


 今は見違えるくらい、うん、そんな嬉しそうな顔するようになったんだもんな。」


「あはは…。」


どうやらラビには全部お見通しらしい、彼の鋭い目利きには敵わない。


「それに男らしくなったよな、こっちのアレンの方が、オレは断然好きだぜ?」


「…ありがとう。」


何も言わなくても自分を理解してくれる、意志の疎通をし合える関係、僕とラビはそういう仲なんだと思う。


あえて余計な詮索をしてこないラビに、僕はそっと感謝した。


この決断に躊躇いも迷いもない。


高校を出たら就職活動をして、立派な社会人になって、リナリーを迎えに…。


だけど楽しいことばかり考えてもいられなかった。


現実に即した状況は何も変わっていない。


二人で一夜を明かした今朝、僕が母親に直接かけ合う案を提示すると、彼女はかたくなにそれを拒んだ。


リナリーは母親に怯えていた。


家族ではない他人が横から口出しすることによって、暴力が激化するケース。


家庭内における、そうした狭小範囲での問題の恐ろしさは、そこにある。


そうなりうることも十分考えられるから、やむなく諦めるしかなかった。


このままじゃ、何も変えられない…。


強い不安と焦燥感が、僕をじりじり責め立てる。


自らの親に虐げられる彼女の苦しみ、その悲しい事実は何も変わっていない。


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僕は帰り道の途中でラビと別れると、今日は一度も帰宅せず、そのままの足で廃屋に向かった。


話すことがたくさんある、大事な話をしなくちゃいけない。


僕らの未来のこと、君のお母さんのことを、二人でしっかり話し合いたい、そして必ず、最善の方法を見つけ出す。


小さな森に続く小道を抜ける、もう少しで廃屋の屋根が見えてくる…。


はやる気持ちを抑えて森を抜ける、後もう少しで、少女の笑顔に会える…。


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裏口の鉄扉、錆びたノブに手をかけた瞬間、ひどく冷淡な声が僕を差し止めた。


「…貴方、『アレン』君よね?」


「‥‥‥はい‥‥そうです‥けれど‥。」


声に振り返ると見ず知らずの顔がそこにあった。


僕を見つめる女性は、自分と全く面識のない女性(ひと)だったのに、彼女がだれなのかすぐ分かった。


「うちの娘(こ)のことで話があるの、貴方の家まで案内していただけるかしら?」


そして僕は、この女性(ひと)が何を話そうとしているのかも、瞬時に理解した。


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これは犯した過ちの代償?


少女の愛を欲した僕への罰?


「…すみません…でした…っ…本当に…すみませんでした…」


母は傍らでしきりに泣いていた、天の許しを請うように深謝の言葉を繰り返していた。


どこか影の薄い女性、リナリーの母親が、いと憎さげに僕を睨み据えている。


その憎しみは僕に向けられたものか、リナリーに向けられたものかも分からない。


ダイニングテーブルの向かい側にある冷淡な顔を、僕はただ漠然と見つめていた。


頭のなかはからっぽだった、全身から力が抜けていくようだった。


昨日の夜、廃屋で僕がしたことをこの人は視ていた。


リナリーの跡をつけていったこの女性は、あの一室での一部始終を目撃した。


背後から後頭部を殴りつけられたみたいに、影の薄い女性の言葉が僕に鈍重な痛みをもたらす。


やがてリナリーの母親の声が、破滅を吟じる後景音楽のように鳴り渡って、僕の視界を浅黒く染めていった。


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暗闇にひとりの少女が浮かぶ、あれはリナリーだ。


僕が腕を伸ばそうとすると、彼女はか細く笑みを作り、深い闇のなかに消えていく。


これでおわり…?


そんなのいやだ…


僕とリナリーの仲が、僕たちが終わるなんて嫌だっ!


「…あのっ…どうすれば…許していただけますでしょうか…」


嗚咽とともに声を絞り出す母の言葉で、気も失いそうな闇から僕は引き戻される。


「そうね、どうしてもらおうかしら。」


主導的な立場を確保したリナリーの母は、誇らし顔で口元を歪めた。


こうなってしまった以上、いかなる非難をされても言い返す権利はない。


このときほど、自らの行いを恥じたことはなかった。


僕が及んだ無責任な行為に、いったい何人が傷ついた?


リナリーの体を抱き締めたとき、その細い肩は震えていた。


彼女は僕に抱かれることを望んでなかったのかもしれない。


ただ傍にいて、彼女を安心させるだけで良かったんじゃないのか?


その結果、全く関係ない母まで巻き込んで悲しませてしまった。


それは後悔を越えた呵責だった。


どれだけ自分を責めても時間は戻せない。


己の感情すら抑えられなかった未熟な子供(ぼく)が、『少女を幸せにする』だなんて、戯言も好いとこだ。


弁明の余地すら、今の僕には…。


「アレン君、金輪際、娘には近づかないでもらえるかしら?」


影の薄い女性は、抑揚のない声で言った。


「…必ずそうさせますっ…ですからどうかっ…息子のことは警察に…」


「ええ、約束さえ守ってもらえれば、大事にはしないわ。」


「…っ!」


たとえ自分と血縁関係でなかったとしても、娘が穢された事実を知ったのなら、普通でいられる訳がない。


なのにリナリーの母親から、何の感情も感じられない。


「責任の一端はリナリーにもあるはずよ、どうせ、うちの娘が貴方を誘う素振りでもしたのでしょう。」


…どこまで鬼畜になれば気が済む。


「…いえ、それは断じてありません。


 全部、僕自身が勝手にしたことです。」


僕を警察に突き出さない理由だって、解っている。


リナリーの体に鏤めた打ち傷のことを求索されるのが嫌だからだ。


「まあ好いわ、それで、要求を呑めるの?呑めないの?」


「‥‥‥‥‥」


「穏便に済ませたいでしょう、アレン君。」


「…アレン…お願いだから…約束してちょうだいっ…」


母が必死の形相で肩を揺すってくる。


僕はずたずたに引き裂かれた少女の心を想った。


閉ざされた闇の向こう、たったひとりで膝を抱えている。


声にならない声で、僕の名を呼び続けている。


その嘆願を無視してしまったら、彼女の引き裂かれた心はどうなる。


「…努力は…してみます…。」


「…ああっ…」


母の胸中を推量すると辛かった、けれどそう答えるのが、今の僕にはやっとだ。


「もう結構、貴方がそのつもりなら、こちらにも考えがあるわ。」


リナリーの母の表情は一変して険しいものになった。


気分を害したのか、乱暴に席を立った女性は、鋭い目つきで僕を睨みつけてから早々と玄関に向かう。


去っていく後ろ影を僕は引き止めた。


「待って…これだけは聞いてください…」


女性は僕の話、雑音に耳を貸す気など、さらさらない、ドアノブを掴んだ手が無造作に回される。


今この場で引き止めて、無理矢理説得したところで何になる?


そうだ、まるきり意味のない無駄なこと、そう分かっている。


「僕は取り返しがつかない過ちを犯した…それを償う為ならどんな罰でも受けます…


 だけどリナリーは何にも悪くない…彼女の心は潔白だ…」


少女の震える体を想い、少女の凍える心を想い、僕はいつの間にか涙を流していた。


現状すら変えられない未熟な子供、確かに僕はそうだけど、彼女を愛する気持ちに偽りはない。


彼女を救いたい、ただ、それだけだ…。


「…これ以上…リナリーの心を…壊さないでくださいっ…。」


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「アレン君、そうまでして貴方が奔(はし)るのは、何故…?」


目縁の滴で濡れた瞳の先に、振り向いた女性の面影がぼんやり映る。


「…え…?」


そして僕が涙を拭うと、そこにリナリーの母親の姿はなかった―――