第四監・二部



窓を開けると、ぬるい夜風が頬を撫でて、髪を揺らす。


高台のマンションから見る眺め、特に、僕の部屋から観える夜景は格別だ。


並び立つ高層ビル、その合間に覗く高速ハイウェイ。


ネイビーブルーの絵の具を塗った世界に、きらきら輝くダイヤモンドが散らばる。


「まるで宝石みたいだ…。」


目に馴染んだ景色のはず、なのにな。


薄暗い部屋に佇んで、僕は紺青の世界に見入っていた。


「そうか…、風景なんて、暫く描いてなかったから。」


美しい場景を描き留めておこうと、ベッドの横のサイドテーブルに手を伸ばす 。


暗闇のなかで少女がまた、か細く笑った気がした。


「…どうすれば…好いんだよ…。」


僕は長い溜息のような嘆きを零して、スケッチブックを取る手を止めた。


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「アレン、入るわよ…。」


母の声だ。


「うん…。」


僕の気のない返事を聞くと、母が自室のドアをそっと開く。


部屋に入ってきた母は憔悴していた、鬱々とした表情に濃い影を落としていた。


…自分が母さんの立場だったら、きっと同じように塞ぎ込む。


女だてらに働いて一生懸命育てた息子に裏切られたも同然なのだから。


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「さっきのことだけど、もう一度、考え直してちょうだい…?」


僕は何も言わず、その言葉にかぶりを振った。


身に沁みとおるほど強く感じる母の想い、だけれど僕は、それに対して頷くことはできない。


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「アレン、貴方がそのお嬢さんと、どんなお付き合いをしていたか、母さん知らない。


 でも良く考えて、貴方のしていることは…


「…彼女は自分の親に虐待されてる…」


「…!」


「…そんなの…ほっとける訳ないだろっ!?」


母が口に手を当てて、瞬きもせず僕を見つめた。


公言するつもりはなかった、表立って言うことじゃない、リナリーがそんなものを受けていたなんて。


そして自分が吐いた乱雑な言葉に、はっとする。


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ばちん…


瞬間にして、叱責を込めた母の平手が、僕の左頬をぶつ。


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「それが事実だとしたら、決して許せないことだわ…


 でも、アレン…


 貴方が犯したことだって、決して許されないことなのよっ…」


「‥‥‥‥‥」


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「…少し頭を冷やしなさい。


 もし、反省しないと言うのなら、母さんが貴方を警察に連れて行くわ。」


母の言い分は正しい、間違っているのは弁えがなかったこの自分だ。


僕を想って戒めてくれている、だからなおさら辛い、その一言が重く伸しかかる。


だけれど僕は…。


「…それでも構わない。」


「アレン!」


分かってる、分かってるけど、このまま何もしないで終わりたくない。


「…リナリーを見捨てるくらいなら、精一杯足掻いて法に裁かれる方を選ぶよ、母さん。」


「貴方…本気なの…?」


落胆と憐れみが滲んだ母の目を、僕はまっすぐ見返す。


「‥‥‥‥‥」


今まで母に反抗したことは一度もない、まして我がままを言ったことだって、一度も…。


あくせく働くあの姿を見ていれば、片親の苦労を知っていれば、母に逆らうことなんてとてもできないと思っていた。


だけれど僕は、少女の震える体に、少女の凍える心に触ったとき、覚悟を決めた。


どんなことがあってもリナリーを愛し抜く、それが僕の『答え』。


「…何を言っても…無駄なのね…」


肩で大きく息をついた母は、しわがれた声を上げ、よろよろと部屋を出ていく。


僕は胸に鈍い痛みを感じながら、母さんの小さな背中に向けて言った。


「‥‥‥ごめん。」


立ち止まることは、もうできない。


†††



その翌日の僕は登校しても、受けている授業を上の空で聞いていた。


ラビに話しかけられたって、確かな返事もしていなかったと思う。


罪深い過ちは表面に曝された、そして僕は母の想いを躙った。


それでも過去を後悔いする時間なんて、残されてはいない、前に進まなくてはいけない。


時は一刻を争っていた。


年の隔たった二人、そんな僕らを立ち塞ぐ障害は瓦礫を積んだ山のように高い。

 
そればかりか、自分たちの親をも敵に回した僕らの道は細く険しい茨の道だ。


これまで面倒を見てくれた母に逆らったからには、家にはいられない。


とにかく早く退学届けを出して、学校を辞めて…


どんなところでも良い、アパートを借りて…


職種は問わない、何でも良いから、就職先を見つけて…


一日の授業が終わった後、僕はラビに適当な嘘をついて、すぐさま廃屋に向かった。


けれどもその日はいくら待っても、彼女が裏口から入ってくる気配はなかった。


外の日が沈みきるまでそこに留まっていた僕は、腕時計が午後八時を差す頃、廃屋を離れることにした。


それは、あらかじめ見越せる結果だ。


あの母親のすることは分かりきっている。


娘の秘事を知ってしまったのだし、そうやすやす外出させたりしないだろう。


だけど辛うじて望みはある。


リナリーの母親がどんなに邪魔立てしようと、僕と彼女が同じ、この街にいる限りは…。


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自宅に着くと、仕事を済ませた母が帰ってきていた。


昨日に続いての今日、ということもあって、母との会話は不自然なものだった。


僕が母さんの気持ちを探る、母さんが僕の気持ちを探る、昨夜の話に関しては一切触れず、淡々と言葉を交える。


もう暫くを巧くやり過ごさなければ…後に退くことはできないのだから…―――