第四監・四部



その翌日からまた、リナリーは廃屋に来なくなった。


僕はある程度、こうなることを予想していたけれど、いざそれが訪れてみると、どうとも言い表せない不安で胸が押し潰されそうになる。


最後に彼女と会ってから、考えるゆとりもないままに半月が過ぎ、僕の学校は暑中休暇で夏休みを迎えた。


学生ならだれもが有意義に使いたいと思う夏休みを、友達と遊ぶ訳でもなく、机に向かって勉強する訳でもなく、汗を流してバイトをする訳でもなく過ごす。


夢なのか、現実なのか、区別しがたい朝を迎えると、そのまま廃屋に行って夜までを過ごす、僕はそんな毎日を送っている。


あれから僕は、夏休み明けに出すつもりでいる退学届けを書いて、雑誌で求人情報を探し、街の不動産屋を何軒も回った。


仕事の方は、職種をより好みしなければどうにかなりそうだった。


けれども、住むところだけは、僕ひとりの力じゃどうにもできそうにない。


何でも僕みたいな学生、言わば未成年がひとり暮らしをするには、不動産会社と契約を交わすとき親権者の同意が必要になるらしい。


そのことを母が認めてくれるとは思えない、となると僕は、必然的に親の承諾が要らない寮つきの職場を探すことになる。
 
 
考えただけで頭が痛くなる問題だった、これで求職の視野は大幅に狭まってしまったのだ。


肝心なことは何ひとつ進んでいない、そして時間だけが過ぎていく。


†††


「何だろう…空が…泣きそうに見える…。」


その日の朝、いつものように目覚めて、いつものように廃屋に向かう途中、僕は空を覆う雲を見上げて足を止めた。


曇った空を見ることなんて、しょっちゅうだろう。


だけど、その日の空は違っていた。


低く立ち込めた雲が空をどんより暗くするさまは、僕の気持ちを理由(わけ)もなく悲しくさせた。


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廃屋に着いた僕は、いつものようにあの部屋へ向かう。


部屋に入ると、なかの空気が昨日の感覚とは、少し変わっているように感じられた。


それは、そう、僕がここに来るたった今まで、だれかがいたような…。


室内を見回していると、ベッドの上のメモ用紙に目がいった。


そして僕は一枚のメモを拾い上げる。


真っ白なそのメモ用紙には、少女のものだと思われる筆跡で書かれた、短い一文が残されていた。


『さようなら、アレンおにいちゃん』


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「‥‥‥何だよ‥‥‥これ‥‥‥」


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それから僕は走った。


彼女が残したメモを握り締めて、廃屋近辺を、街なかを、当てもなく走り続けた。


…どうして…どうしてなんだ…っ…!


告げられた別れの意味が、僕にはどうしても解らなかった。


だから今すぐリナリーに会って確かめたかった。


彼女の心にあるその真意(いみ)を知りたかった。


「…リナリー!」


行く先々ですれ違う人の目も憚らず、僕は声を張り上げて彼女を呼ぶ。


「…リナリー!」


繰り返し何遍も、喉が嗄れてしまうまで叫び続ける。


「…リナリーッ!!」


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町内じゅうを駆け回って、活気づいた大きな商店街に差しかかったとき、僕は鮮やかな赤毛の少年(かれ)に名前を呼び止められた。


「おー、アレン!


 オレ、これからセミナー受けに行くとこなんだよね、もうほんと怠いわ〜。


 そういや、お前こんなところで何やってん…


「約束を守らなくちゃいけないんだよっ…!」


近づいてきたラビの両肩に掴まって、その身体を激しく揺する。


君を一生守ると決めていた…


リナリーを探さなきゃ…


「ちょっとちょっと、たんまっ!


 まあ、落ち着けって、お前が何を言ってるのか、オレにはさっぱり…」


僕の前で目を見開いているラビの後方に、一台のケータリングカーが停車していた。


あのパステルピンクのケータリングカーは、いつのときか、リナリーと行った公園に停まっていた…


そうだ、あそこに…!


「えっ?えっ?


 お、おいっ、どこ行くさっ…!?」


ふっと、そのことを思い出した僕は、ラビの言葉を振り切るようにしてそこから走り去った。


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息を切らしながら辿りついた公園は、あの日のままだった。


滑り台やブランコといった、ごく普通の遊戯具が置いてある、何の変哲もない公園。


広場では幼い女の子たちがヤマモモの木やベンチ、そうした物陰に隠れて、楽しそうにかくれんぼうしている。


子供たちの嬌声が響く平穏な光景に、僕が探している少女の姿はない。


…いちかばちかだ。


僕はかくれんぼうをしている女の子のひとりに、彼女のことを訊いてみた。


「ねえ、キミ、『リナリー』って女の子を知らない?」


「うん、知ってるよ。


 おにいさんも、リナリーちゃんのお友達なんだ?」


女の子は僕の質問に快く答えてくれたけど、その表情がじきに憂えたものに変わる。


「カリンね、すごく悲しいんだ…。」


「…?」


どういうことなのだろう、と思った。


「…リナリーちゃん、引っ越しちゃうんだって。」


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「‥‥‥嘘‥だろ‥?」


その瞬間、瞳に映るものの全てが急速に色褪めて、僕を取り巻く周りの景色は単彩画(モノクロ)に戻っていった。


†††


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じめじめした湿気の多い雨が降ってきた。


雨は憂鬱だ。


薄暗い雲から零れ落ちる滴は空が泣いているように思える。


廃屋に戻るあいだ、急に降り出した霧雨に打たれた僕は、湿った衣服もそのまま、部屋のベッドに腰を下ろした。


僕はあの後、公園にいた女の子から詳しい話を聞き出して、彼女の住むマンションを訪ねていた。


もしたら彼女がまだそこに…、そんな淡い期待があったからだ。


だけれど、すでに手遅れだった。


僕が彼女の家を訪れたときには、電気、ガス、水道といった、案内札が玄関にぶら下がっていて、住人の表札すらなかった。


彼女はこの街を出てしまった。


「ははは、愛想を尽かされちゃったのかな。」


ついつい泣き言を溢してしまう。


こんな情けないやつなんか頼れない、そう思われたのかもしれない。


「なあ、おまえ…。」


思いなしか悲しげに座っているテディベアのぬいぐるみを、僕はそっと抱き上げる。


「おまえも寂しいよな…?


 もうリナリーは、ここには来ないんだ…。」


それならここに来る必要はない、ここにいる理由もない。


自分の言葉と行動がちぐはぐで、嘲笑(わら)えてくる。


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「…っ…ぅっ…寂しいよ…僕だって…っ…」


抑えつけていた感情が、涙が、止まらない。


まるで体の一部を抉りとられたみたいに、痛くて苦しい。


救いたいだの、守りたいだの、さんざん偉そうなことを言って、僕は…。


終わりだ…


何もかも…終わったんだ…


悲嘆や哀願はリナリーに届かない。


彼女をこの腕に抱くことも、彼女と微笑み合うことさえも、もう二度と…。


少女の温もりが消えてしまった部屋で、僕にできるのは、ただ涙を流し続けること、それだけだった―――