黒ノ監・昏冥に堕ちる花婿
注:下部イラストは残酷表現を含む為、血描写等に嫌悪感を持たれるお方の閲覧を推奨出来ません。
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「それじゃあ…車にパパを待たせているから…そろそろ行くね。」
「…え…ああ…」
「またどこかで会えるよね…きっと…。」
彼女は一度、弱々しい笑顔を浮かべてから、きびすを返した。
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人の心情はときと同じく変わるもの、永い空白期があればなおさら、そうであるのが当然だろう。
彼女は人知れず辛い人生を歩いてきた、それも堪え兼ねるほどの仕打ちをされて。
見合い結婚、だれかを介して辿りつく幸せだとしても、それは大人である彼女自身が決めたこと。
自分の結婚相手として相応しいと思えたから、受ける気になった。
やっぱり彼女には、やっと見つけた今を大切にして欲しい。
リナリーの幸せを壊すことなんてできない、愛しているからこそ。
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閉ざされた闇の向こう、彼女を置き去りにしたのは僕だ。
自分なりに精一杯を尽くしたつもりだった、けれど結果論で言えば、そういうことになる。
そんな僕に彼女と一緒になる資格はない、彼女を引き留める権利もない。
ほっそりした華奢な背中を向ける彼女、あの日のように遠ざかってしまう彼女。
いとしい少女は大人になって、この腕をすり抜けていく、脱皮した蛹が、美しい胡蝶へ生まれ変わるように。
僕は唇を噛んだ。
ほんの少し気を抜けば、その可憐な後ろ姿を引き止め、抱き締めてしまいそうだったから。
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ほどなくして、少女の後ろ影が見えなくなってから、僕は血の気が失せた死人のような顔で、公園の敷地内を彷徨った。
眩しい記憶の断片たちが、心を詰り、きりきりと締めつける。
少女の声が、笑顔が、頭のなかを幾度も駆け巡り、僕の脳裏で蘇生される。
どんなに想っても届かないのなら、いっそ、この心ごと殺してしまいたい、そんな風にさえ思えてくる。
…行かせてしまったことを後悔している?
いいや、そうじゃない。
自分のしてきた行いの省慮もしないで、最愛の人の幸せを壊す、僕は人としてそこまで零落したくない。
これは僕自体の問題だ、少女のいない人生をどうやって生きていくか、それだけだ。
朽ちた廃屋のあった場所、この公園で彼女と二度、巡り会わなければ、そうした煩いを抱くことはなかったかもしれない。
でも僕たちは、思いがけなく邂逅してしまった、過去に親しかった人間として。
八年という永い年月、小さな光を探していた僕にとってそれは、崖から突き落とされたも同然、希望は打ち砕かれてしまった。
これから何を生き甲斐にすれば好いのか、何を目指して進めば好いのか。
真実を受け入れることは容易じゃない。
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ときを隔てた後、僕の煩悶を妨げたのは、道路を往来する車の騒音だった。
かなり歩いてきたらしい、どうやら公園をとうに出てきてしまったようだ。
たかだか失恋くらいで、そう思えない自分がいる。
きっともう、絵は描けないだろう。
あれほど逆巻いていた情熱が、嘘みたいに燃え尽きて、もはや涙も流せない。
ガードレールのない歩道から風を切って走る車を眺め、ふと考える。
もし、このまま道路に出たら、僕はどうなるだろうか。
急突進してきた走行車とぶつかり、手足はタイヤに引き千切られ、破裂した腹部から臓物がはみ出し、僕は絶命する。
それから墨汁を塗り潰したような、どす黒い暗闇に呑噬され、僕という人間は無に還る。
攻撃的な感情、自己破壊への欲動、相対拮抗の変動、無機化する原子。
自分の凄惨な姿を想像して、ぞっと寒気がした。
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割かし交通量の多い交差点に近づくと、横断歩道の信号機がちかちか点滅し始める。
…?
まのあたりにある情景を見て、僕はきつく眉を寄せた。
対角線上には彼女がいる、リナリーだ。
何故リナリーが…父親を車に待たせていると…確か…そう言っていたはずだ。
熟考している暇もないうちに、鼓膜を破らんばかりの叫声が上がる。
「ちょっとあんた、危ないよ!」
それは吃驚のほかでもない、驚くことに彼女は、赤点灯した横断歩道をそのまま渡り始めている。
彼女は考えごとをしているのか、信号待ちしていた女性の制し声など、全く耳に入っていないようだ。
リナリーの右側から、猛速力の大型貨物車が勢いよく突っ込んでくる。
「…リナリー、だめだっ!」
僕は反射的に飛び出していた。
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押し出した腕によって、リナリーが後ろに倒れ、尻餅をつくのが分かる。
次の瞬間…。
「…いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
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これは全部夢、どうと言うことはない、単なる夢魔。
目を覚ませばそこは自宅のベッドで、寝坊すけの僕は、家まで迎えに来てくれたラビと学校に登校する。
気怠い授業を大欠伸しながら受けて、放課後はもちろん、少女が待つ廃屋に向かう。
全部夢、そうだと好いのに。
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逆さになった景色のなか、長い髪を振り乱したリナリーが駆け寄ってくる。
僕はずきずきと脈打つ額に手をやった。
生温かい感触が手の甲を伝う。
掌にこびりついた真っ赤な鮮血を見ても、さほど驚かなかった。
…僕は轢かれたんだ。
「おにいちゃん…おにいちゃんっ…!」
傍らに来たリナリーが僕の体を抱き起こす、彼女の顔はしとど流れる涙でくちゃくちゃだ。
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「‥‥って‥‥」
『笑って』
そう言おうとしたけれど、息を吸い込む度、肋間に激しい痛みが奔って、上手く言葉にならなかった。
『泣かないで、笑って欲しい』
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そうだ、僕はこの日の為、今日までを過ごしてきたのだから。
やがて…低い耳鳴(じめい)が聴こえた…。
それから…五体の感覚はゆっくり失われて…深く冷たい闇底に…意識が遠退いていく…。
昏冥(やみ)に堕ちてくというのに…心は…とても安らかだった…。
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‥‥‥僕は‥‥‥やっと君を‥‥‥守ることができた‥‥‥。
‥‥‥君を守れたんだ‥‥‥ぼくは‥‥‥。
‥‥‥リナリー‥‥‥―――
End...
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