夢三夜
「おし、アレン、もう上がっていいぞ。」
陳列棚の整理作業をしている僕に声掛けしてきたのは、この店の店長、リーバーさんだった。
壁時計の指針を見やると午後十時を過ぎている。
コンビニのバイトはこの時間になると、まあまあ楽な方だ。
早朝、昼前は主婦の女性がパートに入ることが多く、午後は高校生や大学生のバイトがかなりの割合を占めている。
フリーターの僕がシフトで組まれやすい時間は夜間、これは必然とも言える。
「お前さぁ、最近、何か良いことでもあった?」
甘いマスクの男らしい表情が、ひょっとやんちゃな顔つきに様変わりする。
「…あ、なんでそう思います?」
すると彼は屈託のない笑顔になって僕に言った。
「そりゃお前、前と比べて、バイトの上がり近づくと、やけににやにやしてっからだろ。」
…それは何とも、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「いいんだ兄弟、皆まで言うな、とうとうあれ(彼女)、できたんだよな?
いあや、アレンの心の兄として、こんな嬉しいことは…」
「あーっ…
もう、からかわないでください…
そんなんじゃないですからっ…」
「まー、顔真っ赤にして怒っちゃって、よう、憎いね〜、このこのっ!」
「リーバーさん、僕で遊ばないでくださいっ!」
そうしたフランクなやり取りを店長と交わしたあと、僕は狭いロッカールームで上着を私服に着替えていた。
店長のリーバーさんは朗らかで気さくな人だ。
彼の人柄の良さが居心地よくて、それもあってこのバイトを漫然と続けていたけれど…。
リナリーに釣り合う男になってしゃんとしていたい、だからこそ今までの自分にけじめをつけてきちんと就活を始めなくちゃいけない。
バイト先を出た僕は、いつものあの湖畔に息を弾ませながら向かった。
彼女はこれといった約束もしていないのに、毎日、僕が来るのを待っていてくれる。
将来に明確なビジョンが見えない、僕がそんなみっともない話をしても、彼女はそれを自分のことのように真剣に悩んで聞いてくれる。
僕はひょっとしたら彼女の優しさに甘えていたのかもしれない。
けれど彼女自身はどうなのだろう、リナリーの肝心な部分、彼女の日常を僕は詳しく知らない。
彼女は日中、何をしているのか、現役大生なのか社会人なのかさえ。
僕が聞いた限りでは、彼女の両親はリナリーが幼い頃に他界したそうだ、それからは親族に面倒を見てもらっていたのだという。
彼女はあるものを常に大事そうに持ち歩いている。
あのとき彼女が握っていた、不思議な輝きの細長い宝石。
彼女はその宝石をときどきショルダーバッグから取り出して、切なそうに目を細める。
懐かしそうで、儚い目の色。
きっとそれは彼女にとって、かけがえのないものなのだろう。
僕は本当の孤独を経験したことがない。
僕には両親が揃っていて、勝手気ままなひとり暮らしまでさせてもらっている。
こうした点でも僕は、改めて父さんや母さんに感謝する切っ掛けをリナリーから貰った。
たまには実家にも連絡しなくちゃな。
普段の何気ない幸せに気づかせてくれる、彼女とのひととき。
リナリーと過ごす時間は、彼女が大事そうにしている宝石のように、僕のなかでいつしか、かけがえのない大切なものに移ろい変っていった。
†††
「今日は、私の家に来ない?」
いつもの湖畔(場所)に着くなり、僕を待っていたリナリーは、そう言ってふわりと微笑んだ。
「…え?
いいんですか…?」
意中の相手でない、付き合っていない男を自分の家に呼ぶ女性の心理を、とかく恋愛経験の少ない僕に分かるはずがなかった。
「アレン君さえ、良ければって、思っているのだけど…」
「ぼ、僕なんかで良かったら…。」
女性の複雑な気持ちを分からなくとも、心の内では『是非とも』と二つ返事で返したい。
断る理由なんて、リナリーを好きな僕にあるわけない。
それから僕は彼女の細い背中に導かれるように後をついていく、湖畔の狭い小道を歩くこと十数分ほど。
一面に広がった如月の木に覆われ、寥々と聳え立つ、重厚で格式ある西洋風のシャトー、それを目が捉えたとき、リナリーが言った。
「緊張しないで、ここは親戚から譲り受けて、ひとりで暮らしているの。」
僕はまあどうせ、ぽかんとした間抜け面でもしていたのだろう。
何の変哲もない凡人と資産家のご令嬢、それほど不釣り合いな格差を感じた。
彼女はこんな立派なお屋敷に住んでいるのか?
「ひとり暮らし…僕と一緒なんですね…」
口をついた自分の言葉に、僕はさらに違うことを意識してしまった。
…だめだ、これ以上余計なことを考えるのはよそう。
洋館の屋敷内はいずれもゴシック様式のインテリアで、十字架を模した電灯やタペストリーなどの調度品があしらわれており、どこか中世ヨーロッパを思わせる造りだった。
その日は彼女が夜食を作ってくれた。
ちょっとしたものだとリナリーは言っていたけれど、その味はほっぺたが落ちるような美味しさだ。
体が温まるミルク粥にふわふわのスクランブルエッグ、彼女は料理上手な女性(ひと)なのだと、僕は純粋に感心した。
そしていつものように他愛のないおしゃべりを交わしているうちに、僕の緊張もすっかり解けていった。
「寒い季節だから、これからは湖じゃなくて、家(うち)で話をしない?」
彼女の一言が機になって、僕の毎日は湖畔に行くことではなく彼女の家に通うこと、それが日ごとお決まりの日課に変わった。
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リナリーが望む『関係』、僕らの『ルール』は引き続き存在していた。
殆ど自分のことを話してくれない彼女、だから僕も敢えて何も聞かないでいた。
けどこうして彼女の家に通っていれば、彼女が普段何をしているのか、どういうことを考えて日々過ごしているのか、ほんの少しでも分かる気がした。
それによりリナリーの思いがけない一面を垣間見ることができた。
彼女は寝付きが良くないそうで。オリジナルでブレンドしたハーブティーを愛飲している。
映像鑑賞や音楽鑑賞だけでなく、実は小説を読むこともとりわけ好きだという。
リナリーの部屋は上品でクラシカルなものが多く、アンティークコレクションの蓄音機、ヨーロピアン調の装飾に富んだ家具といった感じで、物静かな彼女にぴったりな内装だと思う。
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彼女の部屋の側には、妙な威容を放つ書斎の扉がある。
そこには彼女の父が残した遺品が置いてあるそうで、書斎に入ること、近づくことを、リナリーは頑なに拒んでいた。
それから彼女の白い手の甲に時折できている傷跡のようなもの。
知ってはいけないと直感的に思うのだけど、何かが引っ掛かって、それらは僕の頭からずっと離れないでいた―――
†††
その日は、ちょうどバイトが休みだった。
『お薦めのハーブティーがあるの』
リナリーの部屋で、年代ものの蓄音機から流れる、フレデリック・ショパンの別れの曲に僕は耳を澄ます。
琴線に触れる、繊細なこの楽曲は異国では多様な解釈がある。
『Tristesse』は悲しみ…
『L'intimite』は親密、内密…
『Farewell・l'adieu』は別れ、別離…
僕らの関係はいつまで続くだろう、そんなことを考えた。
リナリーは美しい女性だ、もし彼女が好きになれるひと、彼女に恋人ができたら、僕は…
胸にちくりと棘が刺さるような痛みを感じた…
程なくしてリナリーがティーセットを持って、部屋に戻ってきた。
ロココ調のテーブルにティーポットとカップが乗せられ、彼女は丁寧にハーブティを淹れてくれる。
「あ、自分でやります。」
「いいの、アレン君、貴方はお客さまでしょ?」
至れり尽くせりとはこういうことなのだろうか、代わりといっては何だけど、今度お礼でもしないと。
カモミールとローズヒップをベースにペパーミントのようなものを混ぜた、かぐわしい香りが立ち上る。
「さぁ、お味見、お試しあれ。」
リナリーが頬杖をつきながら僕を見つめてくる、彼女はどんな仕草をしても様になる、濃紫の目にじーっと見つめられると、やっぱりどぎまぎしてしまう。
「ええと、じゃあ早速、頂きます。」
そうして僕はティーカップを口に運び、一口飲んでみる。
爽やかなメントールとローゼルの甘酸っぱい風味が混ざったような、ゆったりリラックスできる香り…
そしてそれから…
…あれ?
…頭がくらくらする…君の姿がぼやけて…
…僕は…なんで…
瞬く隙にだけれど僕は見た、彼女の目が冷たく凍る眼差しだったことを、そのあとすぐに目の前が暗くなって…―――
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