夢六夜
緻密に書き連ねられた彼女の文字を、僕は何度も複数回にわたって読み返していた。
常識では測れない目を見張るその内容に、これまでの価値観が一気に崩壊するようだった。
信じられない、でも、信じなければいけない…
でもそれなら、今までのリナリーの不可解な行動にも納得がいく。
彼女がときどき見せたあの仕草、その疑問だって解ける、辻褄が合う。
朧げなものじゃない予感、確かに感じていた違和感、散り散りだったパズルのピースがかちりと嵌まっていく。
…彼女はこんな重大なことを、だれにも告げず、告げられず、長いときのなか独りきり苦しんでいた。
…僕には絶対に知られないようにしていた、いつだって穏やかな顔で笑っていてくれた。
…それなのにこの僕ときたら、なんにも知らずに、ひとり善がりの思い込みで一方的に落ち込んで。
薄っぺらくて愚鈍な自分が、甚だしく嫌になる。
どうして解ろうとしなかったのだろう。
彼女が自分のことを話さなくたって聞かなくちゃいけなかった、踏み込む勇気が必要だったのに…。
リナリーと会えなくなることが怖くて、僕はぐずぐずとしり込みしていたんだ…。
なら、今の僕が彼女にできることは…。
僕らが二人、一緒にいるためには…。
彼女が、リナリーが、僕を好きだと、愛していると想ってくれるのなら…。
それから僕は決然として、一階のリビングに向かった。
イタリアンソファに横たわるリナリーは熱が引かないようで、意識もなく昏睡状態に近かった。
顔色もさきほどよりまして悪くなっている。
「…血、血液が必要だ。」
持ってきたタオルケットを彼女の身体に被せてから、僕はリビングルーム、室内の四面をぐるりと見た。
荘重な壁に飾られた装飾の数々、そのなかに掛けられているシース付きの短剣に目がいった。
僕は早い足取りでそれを取りに行き、そのままリナリーのもとに戻る。
よし、これなら…。
シースを外した短剣の刃は十センチほど、僕はその白刃で自分の親指をすっと横に切る。
傷口から徐々に滲んでくる血液を、リナリーの口許にぐっと押し当て、軽く咥えさせる。
これなら意識がなくても、多少の血液を摂ることができる。
小量でも、彼女が僕の血を飲んでくれたら。
僕の血液がリナリーの唇をじんわり染めて、まるで白膚の女性に赤いルージュを引いたようで、彼女は目を見張るほど美しかった。
あるイメージが浮かんだ、僕が吸血鬼のリナリーに噛まれて血を吸われる…。
だが、いくら望んだとしても、彼女がそうしてくれることはない…。
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何分かした頃、リナリーはまだ目を覚まさなかったが、その顔がほのかに赤みを帯びて、生色を取り戻し始めていた。
僕はほっと胸を撫で下した。
良かった、これで…あとは…。
シースに入れた短剣をボトムのポケットにしまい、またもう一度二階に上がる。
リナリーが書き綴っていたもの、そうだ、血杯さえあれば。
僕らが一緒にいるためには、もうそれしか手段がない。
彼女の部屋の側には書斎があった、彼女はそこに入ることを頑なに拒んでいた、あそこに何かしらの手掛かりがあるに違いない。
閃きにおのずと導かれるようにして、威容を放つ扉の前に僕は立っていた。
大きく息をつく、そして重たいドアノブをそろりと回すと、予想に反していともあっけなく扉は開かれた。
厳かな空気が漂う室内は、見事なまでに何百冊もの本がずらりと並んでいた。
僕はなかでも極めて格別に目立つ深紅色の書冊を見つけた、それを手に持ってみると鉛のようにずっしりした感触があった。
書冊の背表紙に古い筆蹟がある。
『血杯を飲み干しものへ告ぐ、我らの契約は常しえに…』
上表紙を開くとそれは本型の箱になっていて、なかにはシルクベルベットに包まれたヴェネチアンガラスの小瓶のようなものが入っていた。
僕は慎重に小瓶を取り出し蓋を開けてみる、容器の中身は赤い液体のようだ。
『血杯』、きっとこれがそうだ、そうに違いない。
血杯(これ)を飲み干すしかない。
一滴も残さず飲み干せば、リナリーと同じ吸血鬼に…。
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瓶の中身の液体をぐいとひと息に呷ろうとした瞬間のことだった。
「だめっ!」
だしぬけに横から打ち当てられるような衝撃を受けた。
僕の傍らに立っていたのは、緊迫した表情のリナリーだった。
床に目線を落とした僕は、あまりの出来事に驚倒した。
リナリーの手に弾かれて部屋の隅に転がっていった空の小瓶。
足もとの絨毯には小瓶から零れた血のようなものが赤い染みを作っていた。
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「アレン君、どうして、これを…」
「…部屋のベッドの筆記帳、読みました。」
それを聞いたリナリーが絶え入るような声を出す。
「…そう、なんだ。
…なら、知ってるよね。
…私、人間じゃないの…。」
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リビングに戻ってきた僕らは、しばしの間、お互い目を合わせることもなく黙ったままでいた。
何から話せばいいのか、どう話すべきなのか。
先に沈黙を破ったのはリナリーだった。
「…アレン君、どうやって書斎に入ったの?」
「…え?」
「あの扉は、普通の人間には開けられないはずなのに…。」
「…分からない、です。」
僕には不可思議な能力のことはよく分からない、ましてやそうした力が、書斎の扉に施されていたことさえも。
ただはっきりしているのは、血杯を飲み干すことができなかった、儀式は失敗に終わった、ということ。
「今までごめんね、騙していて…。」
リナリーの声は湿っぽく、今にも消えてしまいそうな声音だった。
「アレン君を巻き込んじゃった、私は最低だね…。」
彼女が自嘲気味の笑みを浮かべる。
「そんなこと、ないです。」
僕は自分から勝手に首を突っ込んだ、彼女自身のことに深入りしようとした。
思いを書き留めていた赤い筆記帳、それを読めば、これまで彼女がどれ程辛い葛藤を重ねてきたのか、今の僕にはよく分かる、痛切に感じ取れる。
「私、両親の後を追えるように、お父さまの命を奪った聖杭を、肌身離さず持っていたの。
いつでも死ねるように、孤独な自分を殺せるように。
そんな風にして身を潜めて、長い日々を過ごして、あの湖で君に出会った。
私ね、ちょうどそのとき、とうとう限界で死のうとしていた。
でも偶然、君を見つけて…。」
「あ…」
どんな言葉をかければいいのか、彼女はとてもか弱く見えた。
「もの凄く落ち込んでいたアレン君、人間の君に、私は自分の姿を重ねたの。
知り合ってからの君は、純粋な目で私を見てくれて、毎日優しくしてくれて、人間に、こんな素敵なひとがいるんだって感動した。
でもね、君と親しくなっていくと同時に、激しい衝迫に促されて、君のことを想うたびに、好きになるたびに、自分を抑えられなくなって…。」
彼女は力なく微笑んだあと、そのまま押し黙ってしまった。
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「…だったら、僕を噛んでください。」
やり方は違っても、一度、決断したこと…
人間じゃなくなっても、吸血鬼になったとしても、一緒にいられるのなら…
無理だって分かってる、でも僕には何もできない、他の方法はもう、何も思い付かない…
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思いの丈を吐き出した僕に、彼女はいつか見せた所作をする。
僕の唇に人差し指を押し当てて、寂しげな表情で言う。
「違う、それは『生ける屍』、その意味が分からないからだよ…。
私は君を吸血鬼にしたくない、アレン君を殺せない。
ひとにはひとの幸せ、アレン君の幸せがあるんだよ。
明るい家庭を築いて、人間の子どもを授かって、そんな普通の日常を送って欲しい。」
それは、あらかじめ予測できていた返答(こたえ)だった。
けど僕は君といられるのなら、そんなことに拘らない、二人でなら乗り越えられる、そう思うのに…。
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再び沈黙が降りてきた、そして僅かの間をおいてから彼女は続ける。
「私は人間になりたかった、吸血鬼なんて化け物じゃなくて、普通に生きて、普通に恋がしたかった。
限られたときを懸命に生きるから、ひとは素敵なんだと思う。
だけどこのまま一緒にいたら、いつか私は、君を殺して、吸血鬼にしてしまう。
だから、アレン君の傍にはいられない。
もう終わらせたい、私も、自分自身を…。」
泣きながらそう言う彼女の肩は小さく震えていた。
どうして、どうして君は…
リナリーの強い思いが僕に流れ込んでくるようで、胸が張り裂けそうだった。
どうあっても、彼女との関係を保っていたかった、傍にいたかった。
…それが叶わないのなら、せめて、君には…。
「…終わらせたいだなんて、だめです。
そんなこと、絶対にだめです。
リナリーは化け物なんかじゃない、『僕の大切なひと』なんです。」
僕は語気を強めてきっぱりと言い切る。
…別れが訪れて…僕たちが…離ればなれになっても…。
…どうか、君は…君だけは…前を向いて…。
「僕は吸血鬼にならない、だから君もこれからを生きる。
お願いです、そう約束してください。」
まっすぐ真剣な眼差しの僕に、口を閉ざしてしまったリナリーが俯き姿勢になる。
長い睫毛の先には涙をいっぱい溜めて、僕の言葉を深刻に考え思い詰めている様子だった。
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程なくして、彼女は緩やかにぽつりと呟いた。
「…『大切なひと』…。
…うん、ありがとう。
私、もう少しだけ、頑張ってみる。」
その表情は悲しく痛ましい、僕の心もきつく握り潰されるように息苦しかった。
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「…ねぇ、アレン君。
…私のこと、好き?」
切なそうに泣き笑いを浮かべたリナリーが僕に訊く。
彼女の心、胸の内に秘められた深い意味、その真意を悟ってしまった僕は、静かに答える。
「それは…『興味本位』…です。
…だから。
…こうさせてください。」
僕はリナリーの華奢な肩をぐっと掴んで、ゆっくり顔を近づけた。
「…んっ…」
半ば強引に彼女の唇を割った、僕が舌を差し込むと、彼女は少し驚いて身じろぎをした。
けれど、次第に僕を受け入れるように、彼女も僕の首に手を回した。
もしこれが最後なのだとしても、君といた事実、君がいた証拠が欲しい―――
そうして僕ら大人のキスは、やがて、より深いものになっていった―――
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