夢七夜
 
 
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 …レン君


 …アレン君…。」


それは耳に馴染んだ、綺麗な声だった。


いつかのあの日、聞いた、ソプラノのなよやかな声、玉を転がすような声音。


「…おはよう、アレン君。」


そうだ、この声遣いは僕の大好きなリナリーだ。


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僕はそろそろと眼瞼(まぶた)を開ける…。


「…ん、おはよう、リナリー…


窓から差し込む陽光、きらきらした朝日の輝きが降り注ぐ。


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がばりと弾かれたように飛び起き、僕は、はっとして周囲を見回した。


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そこはリナリーの家、華やかな内装の部屋、昨日、彼女と一夜をともにしたリビングルームだった。


でもその情景は重要な何かが欠けている。


「…え?」


どういうことか、昨夜、僕と一緒にいたリナリーの姿がない。


それに僕は裸だったはずなのに、きちっと上下の服が着せられていた。


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『彼の傍にいてはいけない、もうこれ以上、一緒にいられない…』


僕は彼女の部屋のベッドに置かれていた、赤い筆記帳のことを思い出す。


『…大好きなアレン君に…さようならを…本当に…本当に…ごめんなさい…』


ざわざわと胸騒ぎがした、俗にいう虫の知らせというものなのか、僕のなかの不安がとたんに大きくなる。


…もしや、僕は推し測って考える。


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突として思い立ったように、僕は反射的にリビングルームを慌てて出ていく。


そんなわけない、あるわけがない…


まず先に階段を上がり、二階にある彼女の部屋、その側の書斎に向かう。


そこに彼女の姿は見えない。


二階のゲストルーム、ドレッシングルーム、バルコニーに行くが、彼女は見つからない。



屋敷内は相当広い、ひとつひとつの部屋を探していくには、二階だけでも結構の時間を要した。


次いで一階に降りて、長い廊下から接しているラウンジ、キッチン、バスルーム、エントランス、地下の貯蔵庫など、ありとあらゆる場所を見て回った。


敷地の至るところを隅々まで回るが、どの扉にも鍵は掛かっておらず、屋敷内はもぬけの殻、そして肝心のリナリーもここにいる様子はなかった。


大丈夫、まだ、まだ希望はある…


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僕は屋敷を飛び出して玄関アプローチを抜け、木々が生い茂る森林地まで行き、そこかしこ彼女を探した。


だけど、リナリーの姿は一向に見当たらない。


君はどこに、今どこにいるんだ…


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僕の心は、矢も盾もたまらない焦燥感でいっぱいになっていた。


湖の周り、辺り一帯を探し始めた頃には、とうとう日が落ちてしまった。


暗くなっていく空とともに、僕の気持ちも、どんよりくすんで陰鬱なものになっていった。


それでも僕は息せき切って探し回った、押し迫るこの懸念が現実になってしまうのが怖かった。


違う、そんなことはない。


何遍も自分に繰り返して言い聞かせる。


彼女が何も告げず、いなくなってしまう、そんなわけがない、そう思いたくない。


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僕は一心不乱に彼女を探した、くたくたになるまであちこち走り回った。


幾ばくもなく、夜の帳が下りてきた。


青黒い色が一面の景色を塗り替えていく。


湖周辺にも、ひとの気配がなくなる、それからどこを探しても、僕は彼女の姿を見つけることができなかった。


ひとり取り残された気分になり、身体がずんと重たくなったように感じられた。



何となく見上げた空には下弦の月が浮かんでいた。



僕の心の鏡のように欠けた弦月、それを見ていたら、自然と目縁から涙が溢れてきた。


もう一度君に会いたい、もう一度君の顔が見たい、あともう一度だけ…


所詮、分かっていたことだろう。


こうなることは、とっくに予想してたじゃないか…。


都合いいことばかりを考えていたんだ、君が何も告げずいなくなるなんてあり得ない、そんな確証なんて、本当は、どこにもなかったのに…。


君は僕のもとから離れてしまった…


『さようなら』が君を連れ去ってしまった…


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とうとう行く当てを失くしてしまった僕は、理由もなく意味もなく、屋敷へ戻る道をのろのろと歩いていった。


彼女のいない屋敷に向かう僕は、その一歩一歩が覚束ない足取りだった。


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そうして屋敷の前に辿り着いたとき、僕は茫然自失した。


眼前に広がる光景に、僕の思考回路が壊れていく。



そこには何もない、あるべきはずのものがない。


彼女のいた屋敷、格式ある西洋風の邸宅は、まるで最初から何も建っていなかったかのように、忽然と消えてしまっていた。


なんで、なんでなんだ…


視界に映るのは、鬱蒼と繁茂(はんも)する黒い森、ただただ荒れ果てた樹木たち。


どうして、どうして…


置かれた状況を把握することは、もはや困難だった。


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君のいない世界で、これから僕はどうやって生きていこう…?


普通の人生を送る、そんなことできるわけがない…。


どんな風に君を忘れよう、僕には君しかいない、君なしでは生きれない…。


彼女のいない人生なんて、考えられない…。


君が幻に変わってしまった…


月の魔法が解けてしまった…


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感情が麻痺したようだった、もう、考えることに疲れてしまった…。


呆然と立ち尽くしていた僕は、生気が抜けたように、がっくり膝から崩れ落ちる。


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こうべを垂れたとき、ボトムのポケットから何かがずるりと滑り落ちた。


地面に落下したそれは、あのとき自分の親指を切るのに使った、シース付きの短剣だった。


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そう、僕の答えは、昨夜から自ずと決まっていた。


自分の存在なんて、どうでもいい。


別れが訪れて、僕たちが、離ればなれになっても…。


どうか、君は、君だけは、前を向いて生きて…。


僕はその短剣を手にがっしり掴むと、シースから白刃を引き抜いて、自らの喉元に突き立てる。 


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もしこれが全部、『月夜が見せた幻』だというのなら…



僕は短剣を自身の喉元めがけて、両手で躊躇なくそれを突き刺した。



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なぜだろう、ぱっくり裂けた傷口からは大量の血が流れ出て、僕はこうして倒れ伏しているというのに…


どういうわけか、身体の痛みは、一切感じなかった…


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そうして、どこか彼女に似ている穏やかな光、温かく目映い光に僕は包まれる…


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『…を…守って…』



…遥か遠くの彼方から、だれかの優しい声が、耳朶(じだ)に聞こえたような気がした―――