第三夜

 

気づけばもう十二月半ば、冬至が近いせいか、寒さもひとしお身に沁みる。 


公園には枯れ落ちた葉っぱがいっぱい敷き詰められていて、せっせと落ち葉集めをする地域活動の人たちの姿がある。


今朝の気象ニュースでは『今日は各地とも一日厳しい冷え込みになる』と言っていた。


なのにこんな日に限って手袋を忘れてきてしまった。


ベンチに座って書籍を読む私の手は、この寒さに凍えてじんじんしている。  


でも心はちっとも寒くない、だって、これから彼に会えるんだもの。


「こんにちは、リナリー。」


「こんにちは、アレンくん。」


ほら、いつものように白い少年がやってきた…。


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「『交替性転向反応のメカニズム』…ですか?


 何だかそれ、とっても難しそうな本ですね。」


隣に座っているアレンくんがまん丸の目をして、私の手元にある本の書名を見た。


「ワラジムシ目の迷路実験について、これまで検証されたことが書かれているの。


 等脚類の彼らは何故、壁にぶつかると左右交互に曲がっていく習性があるのか、単純に言えばそういう内容の本よ。」


私がそう言うと、彼はきまりの悪そうな八の字眉を作る。


「ははは、中卒の僕には、何のことか全く分からないや…。」


「あら、そういう貴方が持っている『それ』はなあに?」


アレンくんの手にあるのは一冊の文庫本、それを見やり、私はにんまりした。


「夏目漱石の『こゝろ』ね、それだって難しい小説じゃない。」


本をたちまち背中に隠した彼は言う。


「普段あんまりすることがなくて、いつの間にか、こういうものを読むのが趣味になっちゃったんです。


 なかでもこの人の作品は奥が深くて、彼が連ねた言葉の意味を考えるのが楽しいんですよ。


 …って、ろくに勉強もできない僕が言える台詞じゃないんですけど。」


「そんなことない、文庫本を読み漁るのだって、立派な勉強よ。」


人生を生きてく上で学歴なんて関係ない、彼はそのままでも十分素敵だ。


人間の価値は学業や職業の経歴で決まらない、そんなもので優劣つけられない、今はつくつぐそう思う。


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「ねえ、私のこと、変人だと思ってるでしょ。」


突拍子もない質問をした私に、アレンくんは訝しげな視線を送ってくる。


「どうしてですか?」


「高校生ぐらいの女の子が読むのって、たいがい恋愛小説とかじゃない?


 でも私は違う、科学哲学の参考文献とか、そんなのばっかり。


 …みんなそうなんだ、他のことに興味を持たない、頭の固い私を敬遠しているの。


 やっぱりおかしいよね、私って。」


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「リナリー、それは間違っています。」


彼は私の言葉をはっきりと打ち消した。


「自分の好きな分野に熱中することのどこが、おかしいことなんです?


 それに…」 


「それに?」


「両親の期待に応えてあげたい、そう思っているから、君は頑張っているんでしょう。


 何となくだけど僕には分かります。」


アレンくんに言われてみて、はっとした。


自分自身ですら気づかなかったことだから。


そうね、そうかもしれない。


私はパパとママに自分を見てもらいたかった、褒めてもらいたかった。


だから、今まで頑張ってきたのかもしれない。


アレンくんは私の周りにいる人たちとは違う、人を偏見で見たりせず本質を見ている、そして素直な気持ちのまま接してくれる。


貴方のように正直でいられたら、私も『こんな卑屈っぽい女の子』にならなくて済んだのだろうか。


すぐ隣には相変わらず天使のような笑みを浮かべているアレンくんがいる。


そう言えば彼はどんな日常を送っているのだろう。


学生でもないのに日中の間はいつもこんな公園いる。


めったに見ない白い毛髪、白い上下の服に白いカーディガン、まるっきり普段着のような格好でここに来る。


もしかしたら、彼は…


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「リナリーは奇跡とかって、信じてます?」


広々(こうこう)とした公園の中央に根を下ろす大樹を見つめながら、アレンくんが私に訊いてきた。


「あの樹にはジンクスがあるのよね。


 そういうのって私、いまいち信用できないな。」


「…そうですか。」


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二人の前を冷たい木枯らしが通り過ぎていく。


「今日は冷えますね。」


「そうだね、もう十二月だから。」


悴む指先に自分の息をはあはあ吹きかけて、私は相槌を打った。


「…寒い?」


「…うん、ちょっぴり。」


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「これで少しは温かくなるでしょう?」


アレンくんがその手を私の手に重ね合わせてくる。


彼の手は思っていたより細くて、ごつごつ骨ばっている。


次第に二人のなめらかな肌の体温が、少しずつ少しずつ馴染んで、じんわり温かくなってきた。


手と手の触れ合う感触が、こんなに温かいものだったなんて…


けどきっとそれは、体温のせいだけじゃない…


私、どきどきしてる…


彼に恋してる…


胸の奥から弾けるような甘酸っぱさに、きゅんと締めつけられ、それがもどかしくて押さえきれなくて、何だかむずむずした気分になった。


†††


黄昏どきが過ぎ去って辺りもすっかり暗くなった頃、私は公園でアレンくんと別れ、それから家に帰宅した。



部屋に戻っても机上で山積みになっている学習書たちになど目もくれず、そのままベッドに身を委ね、枕に顔をうずめる。


私は今日のこと、彼のことを思い出し、二人のこれからについてじっくり考えた。


『特別な日』なんて私には関係ないと思っていた。


『大切に想える人』なんてこの先できるはずがないと思っていた。


優しさや温かさ、もしそれに触れてしまったら、たった一度でも甘えてしまったら、自分は脆弱な人間になってしまう。


これまで懸命に築き上げてきた『強さ』という積み木を崩してしまうのが怖かった。


だから無意識のうちにそれを遠ざけようとしていた。


本当の自分を気づかせてくれたあの人はもう、私のなかで『大切な存在』になっている。


(このまま何もしないでいて好いの?)


(せっかく変われそうな気がするのに?)


これからもあの手の温もりを感じていたい、ずっと傍にいて欲しい。


一睡もせずに迎えた夜明け、空に昇り出る朝日を窓際から眺めて、ようやく私は決心した。


想いを伝えよう。


どんな結果に終わってしまっても、それを受け止める。


『素直な私になる』ということは、決して弱いことじゃないのだから…―――