World peace


〜名前を呼んで〜


トーカちゃんは優しい、以前から比べて驚くほど、とても優しくなった。


僕は過ぎ去った懐かしい思い出を回想して、きつい顔の面持ちでいた彼女を思い浮かべる。


ボーイッシュなショートボブを揺らしていた彼女。


そうすると、どこかむずむずして、くすぐったい気持ちになる。


最近のトーカちゃんは、というと、彼女は僕を一番に理解してくれている。


心が通じ合う喜びを、トーカちゃんが僕に教えてくれた。


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でも欲張りな僕は、ちょっと気になっていることがあった。


それは、僕の下の名前を全く呼んでくれないこと。


『カネキ』とは、やっぱり流石に言わなくなってくれたけど…大抵はこうだ。


『ねぇ』とか、『あのさ』とか、きまってしょっちゅうそればかり。


どうも納得いかないと思ってしまうのは、僕のエゴなのかもしれないけれど、違和感があって、もやもやしてしまう。


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僕らの娘、あどけない寝顔の一花はリビングのソファーで昼寝をしていて、一方君はキッチンに立って、昼食の片付けを効率よくこなしていた。


僕は食器洗いをしている、トーカちゃんのところに向かった。


そうしてから、シャンプーの香りを漂わせている彼女の真後ろに、ぴったりくっつく。



「な、なに?」


ひょいと体を密着させた僕を、トーカちゃんが探るような目つきで訝しげに見る。


「前から気になってたんだけど…」


言おうか言うまいか迷った末に、僕はそのまま続けた。


「いつも『ねぇ』とか『あのさ』とか、トーカちゃんは言うよね。


 いちおう、僕にだって名前があるんだけれど…?」


照れくさい言葉を言い終えたあと、ほんの少しの間があく。


「…し、知ってる。」


口が湿りがちになり、僕らの会話はそこで途切れそうになる。


尋ねられたことが気まずいのか、トーカちゃんは押し黙ってしまった。


だけれどかねてからの思いは、言の葉に乗せて、君に伝えないと…。


「下の名前、呼んで欲しい…」


「なっ…」


トーカちゃんの白い頬に薄い桜色が射す、そしてそれは僕もきっと同じだろう。


「僕たちは夫婦だし…」


「…そんなことより、ご飯の片付け…


これは誤魔化さないで欲しい、絶対はぐらかさないで欲しい…


僕はトーカちゃんを逃がさないように、後ろから抱き締めた。


彼女のふわりと柔らかい感触が、僕の思考を掻き乱し甘く惑わせる。


「…あ、ええと」


「言うまで離さないよ。」


僕の真っすぐな視線に耐えられなくなったのか、トーカちゃんは幾ばくか瞳を泳がせたあと、いよいよ観念したように唇を開いて、僕に言葉を返す。


「…分かった、もぉ、言うからっ…


 …っ…け、『ケン』…」


そっと穏やかな声音で呼ばれた僕の『名前』…


顔をぽっと上気させて、恥ずかしそうにはにかみを見せるトーカちゃん。


いじらしくしている姿が儚くて、どうしようもなく愛しくて…


…可愛いのは、反則だろう。



不意にふつふつと込み上げてくる衝動、キスしたい気持ちを抑えるのは堪えがたいもので、容易ではなかった。


真っ昼間からこんなじゃ夜になったら…


僕は自身の先の行動が思いやられる気持ちで、ほとほといたたまれなくなった。


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半喰種になった僕が、君と初めて出逢ったとき。


あのときは、こんな日が訪れるなんて、考えてもみなかった。


ゆっくり流れるきらきらしたひととき、心が温かくなる安らぎの時間。


昔から僕は、やってみたかったことがあるんだ。


そう、それは、まさにこんな光景…


眩しい朝日に目を覚ますと、僕の大切な家族がすぐ近くにいて…


君が毎朝、欠かさずおはようのキスをくれる…


そして妻の君と、僕の娘の一花、みんなでわいわい仲良く朝食を囲んで…


それからそれから、昼どきは、ちょうどこんな風に君にちょっかいを出したりして。


日が暮れて夜空に星が浮かび始めたら、僕は一花とたくさん、くたくたになるまで遊んで…


夜半の月を迎えるころ、すっかり疲れた一花の寝顔を見たあと、安らかな気持ちになって、トーカちゃんを抱き締める。


今、こうして僕のささやかな願いが叶って、君は僕の隣にいてくれる…


君を彩る鮮やかな光をもう手放さない、しっかりと手と手を握って、明るい未来を築く。


いつまでも一緒に、これから先もずっと、もっともっといっぱい家族で幸せを紡いでいこう―――


†最終話、ほんとに良かったです…