夜に駆ける
【無機物の不変性】死の欲望(タナトス)の誘い〜夜風に溶けて〜
晩夏の夕刻、むしむしした鬱陶しい空気が肌に纏わりついてくる。
上がり段を気忙しく登る僕は、彼女から送られてきたスマホのライン、その内容をつと思い出していた。
『さよなら』
たったそれだけ、そんな短い文面の中でも、僕には彼女が何をしようとしているのか疑問の余地はなく、明瞭に分かっていた。
盆休みなど貰えない僕の職場は休む間さえ与えてくれない。
帰仕度を済ませた僕は、彼女の待つ自宅のマンションに急いで向かった。
それが今に至る経緯だ。
そして黄昏に染まる夕景、マンションの屋上、金網越しの向こう側に、ぼんやりと虚ろな目色をした君の姿を見つけた。
最上からその身を投げ、自殺を図ろうとする。
そうした裸足の彼女を見たのは、かれこれおよそ何回目のことだろうか。
「はぁ、はぁっ…
待って…!」
即座に金網を飛び越えた僕は、素早く彼女の手を捕らえる。
掴まえた彼女の手は、蒸れる気温とは正反対に冷たい感触だった。
「…離して…」
振り鳴らす鈴の音のようなソプラノの音色、耳に届く彼女の声遣いが僕は好きだった。
彼女の行為を制止するのは、そうだ、これが四度目だったかも知れない。
・
・
・
この世にはつづまやかに分類すると、ニ属性の本質を持った人間が存在する。
恋心と性愛を司る神、生への欲動に突き動かされる『エロス』に仕え支配される者。
無機物の不変性を司る神、死への欲動に突き動かされる『タナトス』に仕え支配される者。
僕の場合は周りの人々と同じ、二つあるうちの一方、前者だが、彼女はまさしく覆うべくもない後者の方だった。
初めて出会った日、現在の光景(リフレイン)みたいなあの日、自殺を試む彼女を僕が止めた、それを切っ掛けにして、二人は親密な関係になった。
幾分か前の話だが、僕と同じマンションに越してきた彼女。
エバーグリーンを思わせる大きな瞳、ふっくらと形のよい唇に可愛らしい顔立ち。
だけれど、どこか儚い表情をしている彼女、その寂しい眼差しに、僕の心の全ては一瞬にして奪われた。
そう、彼女はまるで遥か空高くから遣わされ、僕のもとに舞い降りてきた天使のように美しい女性だった。
・
・
・
僕には、やや疑問に思うところがあった。
彼女はそれを行おうとする際、いつでも決まったように僕に告げ知らせてくる。
そうして彼女のもとに着くまで、そこで僕のことをじっと待っている。
誰にも告げずひっそり独りきり、命を絶つのが却って確実な方法だとは思う、でも彼女は違った。
或いはそうでなければ、彼女は僕に助けを、心の救いを求めているのではないか…
僕はそんな風に感じていたりもした。
君に聴こえる心無い言葉や煩い声、それらに傷ついて涙が零れてしまっても、僕と二人でなら…
騒がしい日々に追われて笑えない君に、思いつく限りの眩しい明日を…
僕の手を握ってくれたのなら怖くない、いつか日が昇るまで、抱き締めた温もりで君を包むから…
・
・
・
そういえばある時、彼女はこんな話をしていた。
目には見えない影のようなそれは不可解なもの。
正体が知れない、具体的な形を持っていない、ミステリアスな物質を、彼女はしきりに『死神』だと言っていた。
彼女は死神を視ることができる、彼女の言わんとするところは、タナトスに仕え支配された人間にだけ、その『物』を視ることができるのだという。
死神というそれは、視覚できる人間にとって非常に魅力的な姿をしているらしい。
言ってみれば、彼女の『理想の人物』の容姿をしているという話だ。
恋焦がれているような君、見惚れているような君。
理想の人物を見つめている君のそんな顔が、僕は嫌いだ。
・
・
・
信じたいけれど信じれないこと、どうしたってそんなものは、これからだって幾つもある…。
怒って泣いてを何度も繰り返して、それでもきっと、いつかはきっと…。
こんな二人でもきっと、お互いを分かり合えるって、僕はひたすら信じている…。
・
・
・
だけど同時に、僕の中の陰湿で捻じ曲がった思いが頭をもたげる。
汚濁に塗れたどす黒い感情が一気に押し寄せてくる。
彼女を魅了する死神に、僕は嫉妬している…
何で、何でだ…
僕はこんなにも君のことを愛している…
どうして君は僕だけを見てくれないのだろうか…
・
・
・
「…もう嫌なの、もう疲れたのよ…」
がむしゃらに差し伸べた僕の手を、彼女が思い切り振り払う。
「…私は…早く死にたいの…」
いつものように彼女が僕に、無意味な願望を希求する。
彼女の為に用意した言葉はどれも響かない、君に少しも届かない…。
度重なる擦れ違い、僕と君の不調和な関係、打ち解けられない二人、衝突して摩擦に削られていくこの心…。
もはや手遅れとも言っていい、沈鬱な気持ちに気力すら無くしてしまった、失望と疲弊感…。
本当は、もう嫌だってもう疲れたよ、僕だってそう言いたい…。
仄暗い感情に流されて意気消沈してしまった僕は…。
「…僕も…終わりに…したい…」
彼女の言動に釣られるようにして吐き出してしまった泣き言。
堪え切れず溢してしまった呟きをそっと落とす。
・
・
・
次の瞬間、あたかも時が止まったような錯覚に囚われた。
一見すると冷然としていて、無情とも受け取れる彼女の面持ち。
だけれど、それは…
顔を上げた彼女は嫋やかに、そして慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
その柔らかい笑顔を目にした途端、にわかに黒色を帯びた霧がすっと消えて、鬱屈から解放されたような心地に包まれた。
・
・
・
「ねえ…気づいてくれた?」
「うん…やっと分かったんだ。」
・
・
・
ああ、そうか、そうだったのか。
彼女はそれを行おうとする際、いつでも決まったように僕に告げ知らせてくる。
彼女は僕に助けを、心の救いを求めている訳ではなかった…。
君は僕を一緒に、あの彼方へ連れて行きたかった…。
よくよくじっくり脳漿を絞り、記憶を巡らせて解き明かしてみれば、僕の『死神』は彼女自身だった。
・
・
・
騒がしい日々に追われて笑えなくなっていた、既に僕も君も…
僕の視界に映る君の笑顔は、どうにも誘い込むように神秘的で、とても綺麗だ…
明けの来ない葛藤に痛く苦しんだ夜もみんな、全てが君の笑顔にふわりと解(ほど)けていく…
・
・
・
涼しい小夜風が頬を掠めて吹き抜けていく、いつとはなく、気づかないうちに暑さは感じなくなっていた。
・
・
・
変えられない僕自身に絶えず泣いていた僕を、彼女が優しく終焉へと導き誘(いざな)う…
忘れてしまいたくて閉じ込めた思い出たち…
その幕を静かに閉じるように、差し出された君の手を僕はおもむろに取る…
二度と解けないよう、固く繋いだその手を決して離さないで欲しい…
夢のような幻想の世界、この世界とは別の場所、二人は今、こうして夜に駆け出していく―――
***
際限なく続く星空のもと、私の傍には、瞼を閉じた彼が安らかに眠っている。
これは君の幻、私は本質的な実体を持たない、ただの虚像でしかない。
無機物の不変性を司る神、死への欲動に突き動かされる『タナトス』に仕え支配される者。
私の『存在』は、彼の『死への渇望』から生み出された『死神』という、がらんどうの『物』。
君にしか視えない私、君の生命を絶つことが、私に課せられたしかるべき使命だった。
私が貴方を心の暗黒から救い出すことができたのなら、いいな、なんて…。
君に出会えて嬉しかった、精一杯の想い、恵愛の慈しみを込めて…。
もしも私たち二人が輪廻転生を迎えて、生まれ変わることができたのなら、今度は貴方の隣でいっぱい笑って、人として共に生きたい…。
仮初めの幻影(わたし)を愛してくれてありがとう…。
こうして彼と繋ぎ合った手の感触を確かめて…。
今世の繋鎖を断ち切った私たちは、ゆっくりと慎ましく、静寂の真夜中に溶けて消えて行った―――
†続編の『夜に溶ける』、凄く良かったです…
|