第五監・二部



質朴な造りのアパートを出て僕が向かったのは、あの洋館のあった場所だ。


小さな森はなくなり、老朽した建物も取り壊されてしまったけれど、その代わりここに広大な公園ができた。


敷地内の随所にはたくさんの薔薇が植えられていて、薫る風のそよぐ季節になれば、公園のあちこちから馨しい匂いが立ち上る。


ちょうどこの時期だと『薔薇祭典』というものが開催され、薔薇鉢の販売や栽培の説明会などが休憩所と広場で行われている。


そのせいか、五月にここを訪れる人の姿は絶えない。


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赤い薔薇。


芯から赤いその薔薇は僕に、肌の白い少女を想起させる。


疼く想いをどんなに消そうとしても駄目だった、彼女を忘れることなんてできなかった。


何をしていても考える、目を覚ますときも、眠りにつくときも、カンバスと向き合っているときも、ほんの片時だって、君のことを考えている。


少女の体温、少女の匂い、少女の感触、そしてあの夜の笑顔と、交わした約束。


そうやって僕は、何度もここに来てしまう、君の面影を求めてしまう。


愛と夢で、欲望と希望だった、君を…。


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「まあ、素敵な赤…。


 この薔薇、何ていうのかしら?」


「これは『Rosales Rosaceae Rosa』。


 『マリア・カラス』っていうんです…よ…」


僕の言葉はそれきり途切れる。


声をかけられた女性に顔を向けたその瞬間、心臓の拍動が停まりそうになったからだ。


「‥‥‥君は‥‥‥」


吹き抜ける薫風に長い黒髪が舞う。


漆黒の髪を靡かせた女性は、白い肌が印象的な、とても美しい女性だ。


まるで疾雷を撃たれたみたいだった、そこに立っている女性から、ただただ目が離せない。


僕はあのときのように瞬きひとつせず、彼女を見つめる。


「…どうして…君が…」


この目に映っている女性の姿は、僕が廃屋で見た幻、少女と出会う前に視た幻。


そしてそれは、紛れもなく…。


僕には分かる、腰まで伸びたしっとりと長い髪、ふっくらした形の良い唇。


彼女こそリナリーなのだと。


「…リナリー…本当に…君か…?」


感極まってそう呻く僕に、彼女はゆっくりと首を頷ける。


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「‥‥びっくりした‥‥?」


「‥‥‥びっくり‥した。」


色とりどりの薔薇に囲まれて、僕とリナリーは向かい合っていた。


手が汗ばんで、心臓は息苦しいほど高鳴っている。


「アレンおにいちゃん、まだこの街に住んでいたんだ…。」


「…あっ…うん…。」


『アレンおにいちゃん』、その響きがひどく懐かしい。


彼女の声は前より少し大人っぽくなっていたけれど、高く澄んだ、柔らかいソプラノのままだ。


リナリーと巡り会える日をあんなに望んでいたはずなのに、現にそうなってみると、僕は次の言葉を切り出すことさえ、ままならないでいる。


「…私ね、あの後、仙台に引っ越したの。」


「へえ、仙台に…。」


僕たちのぎこちないやり取りが続く、無理もない。


何故なら彼女は僕に別れを告げた立場で、僕は彼女に別れを告げられた立場、そして二人には八年という空白がある。


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「あれから…その、お母さんとは、どう…?」


短い静寂が過ぎた後、僕はこの八年間、どうしても気になっていたことを彼女に質問した。


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「…四年前に…亡くなったわ…。


 癌を患っていたの…もうだいぶ前から…。


 私がそれを知ったのはママの体調が悪化してから…。


 子供を産めない体だったのよ…ママは…。」


リナリーは震えた声でそう言うと、長い睫毛を伏せて悲しげに俯いた。


「…あれからママが私に手を上げることは一度もなかった。


 病院のベッドで息を引き取る前に…ママ言ってた…。


 『ごめんなさい』って…。」


『アレン君、そうまでして貴方が奔(はし)るのは、何故…?』


「…あ…」


リナリーの母親、かつて彼女がしたことは、人として歩む人倫の道を外れたことで、決して許されることじゃない。


だけれどその話を聞いた僕は、哀しくも生じてしまった悲劇の裏に、彼女の深痛な思いを見た気がした。


人として歩むべき道か…。


それを言うのなら、あのときの僕も同じだろう。


許されない過ちを犯した挙句、未熟な子供のくせに大口を叩いて、結局リナリーを孤独にした。


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「それから私、日本(こっち)に帰ってきたパパと暮らしてるのよ。


 おにいちゃんは今、どうしているの?」


「…僕?


 僕は性懲りなく絵を描いているよ、いっぱしに絵描きなんて謳ってね、あはは…。」


彼女が心底嬉しそうに、ほう…と息を漏らす。


そして、続けて僕に言った。


「…あのね、今度、結婚することになったの。


 と言っても、お見合い結婚なんだけど…。


 ママがいなくなって塞ぎ込んでしまったパパを、私なりに元気づけたくて…。」


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「…そう…なんだ…。」


笑えなかった。


彼女がここを訪れた理由、それを直感的に悟ってしまったからかもしれない。


そうか、そうだったのか…。


君は『僕の思い出』と『この場所』にさよならする為、来たんだね。


あのときの、廃屋に残された置き手紙がそれを予覚させる、僕らの関係はすでに終止符が打たれている。


もうあの頃とは違う、彼女は大人になってしまったのだ。


歳月は人間を成長させる、僕の考えが大人になったように、彼女だって…。


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「それじゃあ…車にパパを待たせているから…そろそろ行くね。」


「…え…ああ…」


「またどこかで会えるよね…きっと…。」


彼女は一度、弱々しい笑顔を浮かべてから、きびすを返した。


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人の心情はときと同じく変わるもの、永い空白期があればなおさら、そうであるのが当然だろう。


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…でもどうだ?


この八年間を通して僕が感じてきたのは、どんなことだった?


自分がしてきた行いへの省慮と、約束を果たせなかったことに対する後の悔いだろう。


…このままで好いのか?


…それで納得できるのか?


僕は自らの問いに自ら答えを探す。


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いいや、僕の真実(こたえ)はいつだってひとつだ。


僕はリナリーを愛している、それはどうしたって変わらない、嘘偽りない気持ちじゃないか。


もう彼女を手放したくない。


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「…リナリー!


 話があるんだ。」


後ろ姿を見せていた彼女の足が止まる、だがその顔は振り向かない。


それでも僕は決心して口火を切った。


「…君は迷惑だと思うかもしれない、でも聞いて欲しい。」


最後の最後まで悪足掻きをする僕、それは失恋男の無様なさま、まさしくそれだ。


「これまで毎日を過ごしながら、君を救えなかったことを僕は、いつまでも悔やんでいた。


 何か手はなかったのか…。


 君にさよならを言わせる以外、方法がなかったのか…って。」


みっともなくたって、外聞が悪くたって、構わない。


「…君にずっと…会いたかった。」


僕は今、ここで君に巡り会えたことを感謝している。


「ひとりの男として成長した今なら、君と上手くやり直せる気がする。」


二度と後悔はしたくない。


「だから…。」


言わせて欲しい。


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「もう一度僕を信じて、もう一度僕についてきて欲しいんだ。」


色鮮やかな大輪の薔薇たちに見つめられるなか、僕は今日までの想いを全て、目の前にいるリナリーに伝えた。


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永遠と思えるときが流れてから、ようやく彼女が僕を見た、そして眦に涙を溜めて、にっこりと微笑む。


「ねえ、おにいちゃん。」


そう言って彼女は、肩に提げていたショルダーバッグから何かを取り出す。


「これ、今の私にも似合うかな…。」


リナリーが手で握っているのは、そう、それだった。


「…そうだね…今も似合ってる…とっても…。」


遠い夏の日に僕が贈った、あの赤い格子縞のリボンだった。


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泣きながら笑みを溢したリナリーが、両手を広げて僕の胸に飛び込んでくる。


「…私…貴方に会う勇気が欲しかった…ずっとずっと…貴方に会いたかったのっ…」



そして…そして僕は、心に拡がる幸せを噛み締めて、目を閉じ、彼女の細い肩をめいっぱい抱いた―――